・・・ 今度は梯子の中段から、お絹が忍びやかに声をかけた。「今行くよ。」「僕も起きます。」 慎太郎は掻巻きを刎ねのけた。「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤に蔽われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。 が、いくら透して見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎の姿は見る事が・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。設の蒲団敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ薫床しく乗せられたり。記念にとて送りけむ。家土産にしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・一座は化石したようにしんとしてしまって、鼻を去む音と、雇い婆が忍びやかに題目を称える声ばかり。 やがてかすかに病人の唇が動いたと思うと、乾いた目を見開いて、何か求むるもののように瞳を動かすのであった。「水を上げましょうか?」とお光が・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ば、福はすでにわが家の門内に巣食いおり候、この上過分の福はいらぬ事に候 今夜は雨降りてまことに静かなる晩に候、祖父様と貞夫はすでに夢もなげに眠り、母上と妻は次の室にて何事か小声に語り合い、折り折り忍びやかに笑うさま、小児のことのほか別に・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 其時上手の室に、忍びやかにはしても、男の感には触れる衣ずれ足音がして、いや、それよりも紅燭の光がさっと射して来て、前の女とおぼしいのが銀の燭台を手にして出て来たのにつづいて、留木のかおり咽せるばかりの美服の美女が現われて来た。が、互に・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。 これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであっ・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・ 夜おそく仕事でもしている時に頭の上に忍びやかな足音がしたり、どこかでつつましく物をかじる音がしたりするうちはいいが、寝入りぎわをはげしい物音に驚かされたり、買ったばかりの書物の背皮を無惨に食いむしられたりするようになると少し腹が立って・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ただ暖かい野の朝、雲雀が飛び立って鳴くように、冷たい草叢の夕、こおろぎが忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのが嬉しい。木精に答えて貰うために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく・・・ 森鴎外 「木精」
出典:青空文庫