・・・すると妻は袂を銜え、誰よりも先に忍び笑いをし出した。が、その男はわき目もふらずにさっさと僕等とすれ違って行った。「じゃおやすみなさい。」「おやすみなさいまし。」 僕等は気軽にO君に別れ、松風の音の中を歩いて行った。その又松風の音・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・ 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚撮んだ煎餅を、見ないように、ちょっと傍へかわした宗吉の顔に、横から打撞ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の面に、窪んだ目を細く、小鼻・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・くすくす忍び笑いして、奥田菊代、上手の出入口より登場。 なかなかお上手ね、先生。なんだ、あなたか。ひやかしちゃいけません。 あら、本当よ。本当に、お上手よ。すばらしいバリトン。よして下さい、ばかばかしい。僕ん・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・ある日宅の女中が近所の小母さん達二、三人と垣根から隣を透見しながら、何かひそひそ話しては忍び笑いに笑いこけているので、自分も好奇心に駆られてちょっと覗いてみると、隣の裏庭には椅子を持出してそれに楠さんが腰をかけている。その傍に立った丸髷の新・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・ お母さんは 私閉口しちゃったけれど、やっぱり観に行くわ、と楽しそうに忍び笑いをして、デモ、もうあの先生は誘わないの、と私に云いました。その話を思い出した。これは私がいやだというのとはちがうのですけれどもね。今の世の中に、そういう心持の・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ いきなり二人は頭を引っこめた、そしていたずらっ子僧の様に忍び笑いをしながら、「見つけたねえ、きっと。「見つけたとも、そりゃあ、 こっちを見て笑ったもの。 二人は可笑しさを堪えかねた様にして隅っこの椅子によっかか・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 八月の日は光り漣は陽気な忍び笑いに肩を揺ぶる――青天鵞絨の山並に丸く包まれた湖は、彼等の水槽。 チラチラと眩ゆい点描きの風景、魚族のように真黒々な肌一杯に夏を吸いながら、ドブンと飛び込む黒坊――躍る水煙、巨大な黒坊、笑う黒坊、蛙の・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
出典:青空文庫