・・・しかし息子を、自分がたどって来たような不利な立場に陥入れるのは、彼れには忍びないことだった。 二人の子供の中で、姉は、去年隣村へ嫁づけた。あとには弟が一人残っているだけだ。幸い、中学へやるくらいの金はあるから、市で傘屋をしている従弟」と・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・安方町に善知鳥のむかしを忍び、外の浜に南兵衛のおもかげを思う。浅虫というところまで村々皆磯辺にて、松風の音、岸波の響のみなり。海の中に「ついたて」めきたる巌あり、その外しるすべきことなし。小湊にてやどりぬ。このあたりあさのとりいれにて、いそ・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 如意輪堂の扉に梓弓の歌かき残せし楠正行は、年僅に二十二歳で戦死した、忍びの緒を断ちかぶとに名香を薫ぜし木村重成も亦た僅かに二十四歳で、戦死した、彼等各自の境遇から、天寿を保ち若くば病気で死ぬることすらも、耻辱なりとして戦死を急いだ、而・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・けれども彼女が根本からの治療を受けるために自分の身体を医者に診せることだけは避け避けしたのは、旦那の恥を明るみへ持出すに忍びなかったからで。見ず知らずの女達から旦那を通して伝染させられたような病毒のために、いつか自分の命の根まで噛まれる日の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも右の事実を否定するに忍びない。かえって否定するものの心事が疑われてならない。(衆生済度傍に千万巻の経典を積んでも、自分の知識は「道徳の底に自己あり」という一言・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・いや、書くに忍びぬものが在る。止そう。この小説は、失敗だ。女というものが、こんなにも愚かな、盲目の、それゆえに半狂乱の、あわれな生き物だとは知らなかった。まるっきり違うものだ。女は、みんな、――いや、言うまい。ああ、真実とは、なんて興覚めな・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・の代わりに、バルコンの下から忍びよるド・サヴィニャク伯爵の梯子が石欄に触れる「ティック」の音を置き換えてある。ばかげているようであるが、この音で夢の世界から現実の世界へ観客を呼び返す役目をつとめさせているのである。 公爵のシャトーの中の・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・道太は宿命的に不運な姉やその子供たちに、面と向かって小言を言うのは忍びなかった。それに弱者や低能者にはそれ相当の理窟と主張があって、それに耳を傾けていれば際限がないのであった。 辰之助もその経緯はよく知っていた。今年の六月、二十日ばかり・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・まず、忍び逢いの小座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るよ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚の唇をぴりぴりと動かす。「今日のみの縁とは? 墓に堰かるるあの世までも渝らじ」と男は黒き瞳を返して女の顔を眤と見る。「さればこそ」・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫