・・・今こそお蓮さんなんぞと云っているが、お蓮さんとは世を忍ぶ仮の名さ。ここは一番音羽屋で行きたいね。お蓮さんとは――」「おい、おい、牝を取り合うとどうするんだ? その方をまず伺いたいね。」 迷惑らしい顔をした牧野は、やっともう一度膃肭獣・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・もっとも今日は謹んで、酒は一滴も口にせず、妙に胸が閊えるのを、やっと冷麦を一つ平げて、往来の日足が消えた時分、まるで人目を忍ぶ落人のように、こっそり暖簾から外へ出ました。するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・俺たちはたとい選にもれても、ストイックのように忍ぶから……心配せずに。俺たちのほうにはともちゃんを細君に持つのに反対する奴は一人もいまい。どうだみんないいか。よければ「よし」といえ。一同 よし。とも子 選んだらどうするの。花田・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばか・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・人目を忍ぶんだな。産屋も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消えるように音が留んで、ひたひたと小石を潜って響く水は、忍ぶ跫音のように聞える。 紫玉は立留まった。 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、――日本一にて候ぞと申しける。・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹の塵を払いて、慎ましげに音〆をなすのみ。 お貞・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・否、君のみにあらず、われは一目見しかの旗亭の娘の君によく肖たると、老い先なき水車場の翁とまた牛乳屋の童と問わず、みなわれに永久の別れあるものぞとは思い忍ぶあたわず。ああ天よ地よ、すべて亡びよ。人と人とは永久に情の世界に相見ん。君よ、必ず永久・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・事を決する元来癰を截るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館と相関聯して今後とも盛衰すべき好位置に在り。眺望のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
出典:青空文庫