・・・営利に急なる財界の闘士が、早朝忘我の一時間を菊の手入れに費やすは一種の「さび」でないとは言われない。日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・ 人が、陥り易い多くの盲目と、忘我とを地獄の門として居る為に、性慾が如何に恐るべき謹むべきものであるかと云うことは、昔の賢者の云った通りである。 然し、本然が暗と罪と堕落なのであろうか。此処に来ると、自分は長与氏、又は、トルストイの・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・が、或瞬間、情熱の爆発は、其の忘我まで自分を馳り立てる。 彼女は――自分は――その忘我が、感情に於てふんだんの女性である自分にとって、不可抗なものである事を熟知して居る。 其が故に、彼女はその忘我の裡に恍惚とした我をも、何の恐れなし・・・ 宮本百合子 「結婚問題に就て考慮する迄」
・・・甘美な忘我が生じる。 やがて我に還ると、私は、執拗にとう見、こう見、素晴らしい午後の風景を眺めなおしながら、一体どんな言葉でこの端厳さ、雄大な炎熱の美が表現されるだろうかと思い惑う。惑えば惑うほど、心は歓喜で一杯になる。 ――も・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・生きる霊魂には斯ういう忘我がなければならない。小細工に理窟で修繕するのではない根からすっかり洗われるのだ。そして軽々と「果」を超える。只一点に成るのだ。 昔小学校で送った幾年かの記憶は、渾沌としている。其の渾沌の裡に只三つ丈光った星・・・ 宮本百合子 「追慕」
出典:青空文庫