・・・御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「おん主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を、もとの霊魂に併せてよみ返し給い、善人は天上の快楽を受け、また悪人は天狗と共に、地獄に堕ち」る事を信じている。殊に「御言葉の御聖・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ 好悪 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。 ではなぜ我我は極寒・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・彼はまず何を措いても、当時の空想を再びする無上の快楽を捉えなければならぬ。―― 硝煙は見る見る山をなし、敵の砲弾は雨のように彼等のまわりへ爆発した。保吉はその中を一文字に敵の大将へ飛びかかった。敵の大将は身を躱すと、一散に陣地へ逃げこも・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・およそ文学に限らず、如何なる職業でも学術でも既に興味を以て従う以上はソコに必ず快楽を伴う。この快楽を目して遊戯的分子というならば、発明家の苦辛にも政治家の経営にもまた必ず若干の遊戯的分子を存するはずで、国事に奔走する憂国の志士の心事も――無・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・ クロポトキンは、「何事をおいてもの快楽の情欲しか持たないところの、のらくら息子でないかぎりは、真理のために起つであろう」と、言っている。 青年時代は、最も、真理を検別するに、敏感であるばかりでなく、また真理の前に正直であるからであ・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
・・・淫蕩な事実を描く、肉欲を書き、人間の醜い部分と、そして、自分達、即ちブルジョア階級がいかにして快楽を求めつゝあるかを告白する。しかし、余程の低劣な作家にあらざる限り、これ等の事実を提供して、読者に媚びようとする者は恐らくあるまい。社会の一般・・・ 小川未明 「何を作品に求むべきか」
・・・嘘をつくが、小説を書く時には、案外真面目な顔をして嘘をつくまいとこれ努力しているとは、到底思えない。嘘をつく快楽が同時に真実への愛であることを、彼は大いに自得すべきである。由来、酒を飲む日本の小説家がこの間の事情にうといことが、日本の小説を・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・同じ寐られない晩にしても吉田の心にはもうなにかの快楽を求めるような気持の感じられるような晩もあった。 ある晩は吉田は煙草を眺めていた。床の脇にある火鉢の裾に刻煙草の袋と煙管とが見えている。それは見えているというよりも、吉田が無理をして見・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・この人格価値を高めることが行為の目的である。快楽、幸福、福利は目的そのものとして追求せられるべきでない。これが人格主義の主張である。カントや、リップス、コーヘン等のカント学派も、フッサール、シェーラー、ハルトマン等の現象学派も人格主義の点で・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・肉体的快楽をたましいから独立に心に表象するという実に悲しむべき習癖をつけられるのだ。性交を伴わぬ異性との恋愛は、如何にたましいの高揚があっても、酒なくして佳肴に向かう飲酒家の如くに、もはや喜びを感じられなくなる。いかに高貴な、楚々たる女性に・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫