・・・明日の生命も分らないということが常に心にあって、今日のうちに出来るだけ快楽をむさぼっておかないと損だ、というような気持になるのだ。 街へ出ると、露西亜人がいる。露西亜の兵隊が、隊伍を組んで歩いている。始めは、そういうのを見ても何ともない・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・快活らしい元気な表情の中には、ただ、ゼーヤから拾ってきた砂金を掴み取り、肌の白い豊満な肉体を持っているバルシニヤを快楽する、そのことばかりでいっぱいだった。 永井は、ほかの者におくれないように、まっしぐらに突進した。着剣した、兵士の銃と・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・あらゆる夫婦らしい親密も快楽も行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍なぞも好くしたが、終にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。 悲しい幕が開けて行った。大・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・これ程費用が少くて快楽の多いものはなかろう、とは持論である。その日も例のように錦町から小川町の通りへ出た。そこここと尋ねあぐんで、やがてぶらぶら裏神保町まで歩いて行くと、軒を並べた本屋町が彼の眼前に展けた。あらゆる種類の書籍が客の眼を引くよ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・事の多いゆえに、「おもてには快楽」をよそわざるを得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力する。そうして、客と・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・これらこそ安易の夢、無智の快楽、十年まえ、太陽の国、果樹の園をあこがれ求めて船出した十九の春の心にかえり、あたたかき真昼、さくらの花の吹雪を求め、泥の海、蝙蝠の巣、船橋とやらの漁師まちより髭も剃らずに出て来た男、ゆるし給え。」 痩躯、一・・・ 太宰治 「喝采」
・・・神は、こんどはあなたに遠い旅をさせて、さまざまの楽しみを与え、あなたがその快楽に酔い痴れて全く人間の世界を忘却するかどうか、試みたのです。忘却したら、あなたに与えられる刑罰は、恐しすぎて口に出して言う事さえ出来ないほどのものです。お帰りなさ・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ すなわちかれの快楽というのは電車の中の美しい姿と、美文新体詩を作ることで、社にいる間は、用事さえないと、原稿紙を延べて、一生懸命に美しい文を書いている。少女に関する感想の多いのはむろんのことだ。 その日は校正が多いので、先生一人そ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ただ何かしら絶えず刺戟が欲しい。快楽とか苦痛とか名の付くようなものでなく、何んだか分らぬ目的物を遠い霞の奥に望んで、それをつかまえよう/\としていた。小説を読んだり白馬会を見に行ったりまた音楽会を聞きに行ったりしているうちには求めている物に・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・本来快楽を目的とする音楽でさえもドイツ人の手にかかるとそれが高等数学の数式の行列のようなものになり、目を喜ばすべき映画でさえもこの国でできたものは見ていておのずから頭痛のして来るようなのがはなはだ多い。これに比べてフランスにはいくらかの俳諧・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫