・・・で歩くのであるから、忍耐に忍耐しきれなくなって怖くもなって来れば悲しくもなって来る、とうとう眼を凹ませて死にそうになって家へ帰って、物置の隅で人知れず三時間も寐てその疲労を癒したのであった。そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「さほどに人が怖くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端に、背中で、「ふふん」と云う声がした。「何を笑・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 私は自分が怖くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私は意識を回復した。静かに心を落付ながら、私は今一度目をひらいて、事実の真相を眺め返した。その時もはや、あ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・雖然どう考えても、例えば此間盗賊に白刃を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実に怖くはないのだ。怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・ホモイは少し怖くなって戻ろうとしますと、馬はていねいにおじぎをして言いました。 「あなたはホモイさまでござりますか。こんど貝の火がお前さまに参られましたそうで実に祝着に存じまする。あの玉がこの前獣の方に参りましてからもう千二百年たってい・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・けれどとうとうあんまり弟が泣くもんだから、自分も怖くなったと見えて口がピクッと横の方へまがった、そこで僕は急に気の毒になって、丁度その時行く道がふさがったのを幸に、ぴたっとまるでしずかな湖のように静まってやった。それから兄弟と一緒に峠を下り・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 向うの一疋はそこで得意になって、舌を出して手拭を一つべろりと嘗めましたが、にわかに怖くなったとみえて、大きく口をあけて舌をぶらさげて、まるで風のように飛んで帰ってきました。みんなもひどく愕ろきました。「じゃ、じゃ、噛じらえだが、痛・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
・・・山男はどうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのようでへんに怖くてしかたありませんでした。 そのうちに支那人は、手ばやく荷物へかけた黄いろの真田紐をといてふろしきをひらき、行李の蓋をとって反物のいちばん上にたくさんならんだ紙箱・・・ 宮沢賢治 「山男の四月」
・・・誰が治安維持法に苦しめられなかったでしょう。怖くない者は一人もなかった筈です。自然なこの暴力を嫌う感情と、当時のプロレタリア文学理論の再検討とは本質的には二つのものであったのに、当時の人々は、それをはっきり意図してはいなかったかもしれないけ・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
出典:青空文庫