・・・と同時にまた、昔の放埓の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・妙子は漢口へ行った後も、時々達雄を思い出すのですね。のみならずしまいには夫よりも実は達雄を愛していたと考えるようになるのですね。好いですか? 妙子を囲んでいるのは寂しい漢口の風景ですよ。あの唐の崔さいこうの詩に「晴川歴歴漢陽樹 芳草萋萋鸚鵡・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ ここに来て私はホイットマンの言葉を思い出す。彼が詩人としての自覚を得たのは、エマソンの著書を読んだのが与って力があると彼自身でいっている。同時に彼は、「私はエマソンを読んで、詩人になったのではない。私は始めから詩人だった。私は始めから・・・ 有島武郎 「想片」
・・・ この山の上なる峠の茶屋を思い出す――極暑、病気のため、俥で越えて、故郷へ帰る道すがら、その茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫陽花で包まれていました。――私の顔の色も同じだったろうと思う、手も青い。 何より、嫌な、可恐い雷が鳴った・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様なことがしばしば・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ お母さまは、また目を細くして、過ぎ去った日を思い出すようにして、「それは、美しい娘さんだったよ。みんな通りすがる人が、振り向いていったもんです。」と、いわれました。「どうか、そのお姉さんの写真でも見たいものです。」と、のぶ子は・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・厭だと思い出すととても堪らない」 黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南京鼠の匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。そしてそれは・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・と問われて、私も樋口とは半年以上も同宿して懇意にしていたにかかわらず、さて思い返してみて樋口が何をまじめに勉強していたか、ついに思い出すことができませんでした。 そこで木村のことを思うにつけて、やはり同じ事であります。木村は常に机に向い・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 亡くなった母を思い出すたびに、私は幼いときのその乳汁を目に落してくれた母が一番目の前に浮かぶのだ。なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛! 岩波書店主茂雄君のお母さんは信濃の田舎で田畑を耕し岩波君の学資を仕送りした・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
出典:青空文庫