・・・何等の遠い慮もなく、何等の準備もなく、ただただ身の行末を思い煩うような有様をして、今にも地に沈むかと疑われるばかりの不規則な力の無い歩みを運びながら、洋服で腕組みしたり、頭を垂れたり、あるいは薄荷パイプを啣えたりして、熱い砂を踏んで行く人の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・「思い煩うな。空飛ぶ鳥を見よ。播かず。刈らず。蔵に収めず。」 骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・日本のスタヴロギン君には、縊死という手段を選出するのに、永いこと部屋をぐるぐる歩きまわってあれこれと思い煩う必要がなかったのである。宿屋へ泊って、からだを洗い、宿の、ま新らしい浴衣を着て、きれいに死にたく思ったけれども、私のからだが、その建・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いは・・・ 太宰治 「十五年間」
一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい。青空もこのごろは、ばかに綺麗だ。舟を浮べたいくらい綺麗だ。山茶花の・・・ 太宰治 「新郎」
・・・トイレットの中か、または横丁の電柱のかげで酔っていながら、残金を一枚二枚と数えて、溜息ついて、思い煩うな空飛ぶ鳥を見よ、なんて力無く呟いてさ、いじらしいものだよ。実は、僕にも覚えがあらあ。「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんで・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・「第一を躊躇の時期と名づける、これは女の方でこの恋を斥けようか、受けようかと思い煩う間の名である」といいながらクララの方を見た時に、クララは俯向いて、頬のあたりに微かなる笑を漏した。「この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許さ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・私はいろいろな事を考えたあとでいつも「明日の事を思い煩うな」という聖語を思い出し、すべてを委せてしまう気になります。そうしてどんな事が起ころうとも勇ましく堪えようと決心します。 しかし私はすでに与えられたものに対してはのんきである事がで・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫