・・・事によったらお前さんのあの座から出て行くようになったのを、わたしのした事だとお思いかも知れないが、それは違ってよ。お前さんはそう思ったって、わたしそんなことをしやしないわ。こんなことをいったって駄目ね。なんと云ったって、お前さんはそう思って・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしいとも思いませんでしたから、礼を言って断わってしまいました。 で鳩は今度は牧場を飛び越して、ある百姓がしきりと井戸を掘っている山の中の森に来・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い当ることが出来ましょう。彼女の二人の姉は、スケシニスハスニと云う名でした。お揃にする為、父親は一番末の娘にも、スバシニと云う名をつけたのでした。彼女は、其をち・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人である、ということがわかったの。老婆は、だめ。おじいさんで無くちゃ、だめ。おじいさんが、こう、縁側にじっとして坐っていると、もう、それだけで・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・僕がいないと、銀行で差支えるのですが、どうにかして貰えないことはなかろうと思います。」実はこれ程容易な事はない。自分がいなくても好いことは、自分が一番好く知っているのである。「宜しい。それじゃあ、明日邸へ来てくれ給え。何もかも話して聞せ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・足のコンパスは思い切って広く、トットと小きざみに歩くその早さ! 演習に朝出る兵隊さんもこれにはいつも三舎を避けた。 たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物奴がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・遠い恒星の光が太陽の近くを通過する際に、それが重力の場の影響のために極めてわずか曲るだろうという、誰も思いもかけなかった事実を、彼の理論の必然の結果として鉛筆のさきで割り出し、それを予言した。それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果から・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 桂三郎は、私の兄の養子であったが、三四年健康がすぐれないので、勤めていた会社を退いて、若い細君とともにここに静養していることは、彼らとは思いのほか疎々しくなっている私の耳にも入っていたが、今は健康も恢復して、春ごろからまた毎日大阪の方・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を推倒して一にならなければ止まぬ。一にせん、一にならんともがく。国と国との間もそれである。人種と人種の間もその通りである。階級と階級の間もそれ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫