・・・文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋の間より起たしむるあたわざりしもの何・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・あまがえるは思わずどっと笑い出しました。がどう云うわけかそれから急にしいんとなってしまいました。それはそれはしいんとしてしまいました。みなさん、この時のさびしいことと云ったら私はとても口で云えません。みなさんはおわかりですか。ドッと一緒に人・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら」 やっと聞える位の声であった。「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った、いやなひと!」 椅子の上から座布団を下し、縁側に並べた。「どんな? 工合」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・塵を取るためとは思わずに、はたくためにはたくのである。 尤もこの女中は、本能的掃除をしても、「舌の戦ぎ」をしても、活溌で間に合うので、木村は満足している。舌の戦ぎというのは、ロオマンチック時代のある小説家の云った事で、女中が主人の出た迹・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利の物なので思わずも雀躍した,「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、「・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・その夜、議事の進行するに連れて、思わずもナポレオンの無謀な意志に反対する諸将が続々と現れ出した。このためナポレオンは終に遠征の反対者将軍デクレスと数時間に渡って激論を戦わさなければならなかった。デクレスはナポレオンの征戦に次ぐ征戦のため、フ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして思わず燃え下がったマッチでその方角を照して見た。なんだかヴェエルで顔をすっかり包んだ女のような姿がちらと見えたらしかった。そのうちマッチは消えて元の闇になった。 フィンクは今の声がまたすれば好いと思って待っている。そのうち果してま・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・そして時には、思わず顔をそむけようとするほどひどく参らされる。私はそれを自己と認めたくない衝動にさえ駆られる。しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募る・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫