・・・そこで彼等はまず神田の裏町に仮の宿を定めてから甚太夫は怪しい謡を唱って合力を請う浪人になり、求馬は小間物の箱を背負って町家を廻る商人に化け、喜三郎は旗本能勢惣右衛門へ年期切りの草履取りにはいった。 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさま・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・目がまわったも怪しいもんだぜ。」 飯沼はもう一度口を挟んだ。「だからその中でもといっているじゃないか? 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、何か更紗の帯だったかと思う、とにかく花柳小説の挿絵のような、楚々たる女が立っているんだ・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ 寂しく、広間の真中に、革紐で縛られた白い姿を載せている、怪しい椅子がある。 フレンチにはすぐに分かった。この丸で動かないように見えている全体が、引き吊るように、ぶるぶると顫え、ぴくぴくと引き附けているのである。その運動は目に見えな・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・婦でト筮をするのが怪しいのではない。小僧は、もの心ついた四つ五つ時分から、親たちに聞いて知っている。大女の小母さんは、娘の時に一度死んで、通夜の三日の真夜中に蘇生った。その時分から酒を飲んだから酔って転寝でもした気でいたろう。力はあるし、棺・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ と、虫の声で、青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴ばかりを出して、麓を瞰下しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。 その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・兄さんの考えというのは怪しいとお繁さんが笑う。妹さんの云う通りだ、東京がいやというは活動を恐れるのだ。活動を恐れるのは向上心求欲心の欠乏に外ならぬ。おれはえらい者にならんでもよいと云うのが間違っている。えらい者になる気が少しもなくても、人間・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ふとそのとき、水の底に、茫として、怪しい影のようなものが見えたのであります。「なんだろう?」と、彼が、瞳をこらすと、破れた帆を傾けて、一そうの、難破船が、水の中を走っていたのです。「あ、船幽霊だ!」と、叫ぶと、ぎょっとしました。・・・ 小川未明 「海のまぼろし」
・・・夜になると、ますます風が募って、沖の方にあたって怪しい海鳴りの音などが聞こえたのであります。 その明くる日も、また、ひどい吹雪でありました。五つの赤いそりが出発してから、三日めに、やっと空は、からりと明るく晴れました。 三人の行方や・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・しかし、文壇にしても相当怪しい会話を平気で書いている作家が多く、そのエスプリのなさは筆蹟と同じで、どうにもなおし難いものかも知れない。 文壇で、女の会話の上品さを表現させたら、志賀直哉氏の右に出るものがない。が、太宰治氏に教えられたこと・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・「面白い家って、怪しい所じゃないだろうね」「大丈夫ですよ。飲むだけですよ。南でバーをやってた女が焼けだされて、上本町でしもた家を借りて、妹と二人女手だけで内緒の料理屋をやってるんですよ」「しもた屋で……? ふーん。お伴しましょう・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫