・・・丸顔のかわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎の豪家の若旦那で、金には不自由を感じなかったから、ずいぶんおもしろいことをした。それにあのころの友人は皆世に出ている。この間も蓋平で第六師団の大尉になっていばっている奴に邂逅した。 軍隊生活・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それでたぶん、年じゅう胃が悪くて時々神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるのかもしれない。 故夏目漱石先生も青磁の好きな人間の仲間であったが、先生も胃が悪くて神経衰弱であったの・・・ 寺田寅彦 「青磁のモンタージュ」
・・・ 四 新星 毎年夏になってそろそろ夕方の風が恋しい頃になると、物置にしまってある竹製の涼み台が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の単調な一年中の生活に一つの著しい区切りを付ける重要な日になっている。もう・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・やっぱしもとの家というものは恋しいものかなあ。――何、僕の故家かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかしだいぶ江戸っ子でも幅のきかない山の手だ、牛込の馬場下で生まれたのだ。 父親は馬場下町の名主で小兵衛といった。別に何・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見る。中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞え出す。夜はいつの間にかほのぼのと明け渡る。 七日に逼る戦・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。まだ人生と恋愛とが未来であった十七歳の青年の心持に、ただの二三十分間でもいいから戻ってみたい。あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼に伴う熱烈な欲望が今一度味われ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・故郷が恋しい、母サンやお祖母サンガ居ナイカラ僕ツマンナイヤ、とは、幼い藤村の手紙に決して率直に書かれなかったであろう。 藤村が文学の仕事に入った頃、日本の文学はロマンチシズムの潮流に動かされていた。当時の文学傾向がそうであったと云うばか・・・ 宮本百合子 「藤村の文学にうつる自然」
・・・つくづく東京が恋しい。平常私は『自分は、手足は山の中に暮しても頭だけ――私の仕事なり考えなりは大都会の中央で活動して居なければ満足出来ないだろう』と云ってましたが、尚更、私は、そう云う人間である事が明かになって来ました。帰りたい、ほんとうに・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 着物をしっとりと重くして鼻の先の赤くなるのを気にしながら人通りもない道を歩いた処ではじまらない、ほかほかとした炬燵が恋しい。 宮本百合子 「夜寒」
・・・姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮れを待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。 とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬときが来た・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫