・・・ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。 むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、その・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・田舎の老父母は、はじめからとみをあきらめ、東京のとみのところに来るように、いくら言ってやっても、田舎のわずかばかりの田畑に恋着して、どうしても東京に出て来ない。ひとり弟がいるのだが、こいつが、父母の反対を押し切って、六年まえに姉のとみのとこ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・なんだい、こんな家の一つや二つ。恋着しちゃいけない。投げ捨てよ、過去の森。自愛だ。私がついている。泣くやつがあるか。」泣いているのは私であった。 それからは、めちゃめちゃだった。何を言ったか、どんなことをしたか、私は、ほとんど覚えていな・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・名への恋着に非ず、さだめへの忠実、確定の義務だ。川の底から這いあがり、目さえおぼろ、必死に門へかじりつき、また、よじ登り、すこし花咲きかけたる人のいのちを、よせ、よせ、芝居は、と鼻で笑って、足ひっつかんで、むざん、どぶどろの底、ひきずり落す・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・純夫に恋着を失った陽子にそんなことはどうでもよかった。然し、事実は愛情もない、別々に生活している男女が法律の上でだけは夫婦で、しかもその法律が物をいい出せば、夫である田村純夫がいろいろ支配力を自分の上に持っているという考えは何と奇怪であろう・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・の抒情性には、平穏に巣ごもった男女の恋着のなま暖かさはない。大きく暗くおそろしい嵐がすぎて空ににおやかな虹のかかったとき、再び顔と顔とを見合わせた男女が、互の健闘を慶び、生きていることをよろこび、そのよろこばしさにひとしお愛を燃えたたせる姿・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ ところで、注目されることは、いわゆる風俗文学の作者たち、中間小説と称するよみものがかけないものは文学上の半人足であるとするような作家たち自身が、他の半面では、いわゆる純文学とよばれて来た本当の文学に恋着を示している点である。これらの作家た・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・一度、わが良人と呼べば縁は深く 絆は断ち難いただ一人の女として 私はどれ程男たる貴方に恋着するだろう。打ち顫える抱擁と思い入った瞳を思い起せば私は 心もなえ獣となって 此深い驚異すべき情に浸りたいとさ・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・性慾を芸術にまでたかめ得ず ○女に恋着あって、対手を何も云えずいつくしんで見るようになる男の心持ない わけ。〔欄外に〕 翌朝、何か一種揺蕩たるややエロティックな感じあり。対手を見なおす心持、何か他人でないような気持がする。・・・ 宮本百合子 「一九二七年八月より」
・・・彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫