・・・明瞭な恐怖なんじゃないか。恐ろしい事実なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事実なんだよ。それが君に解らないというのは僕にはどうも不思議でならん」 Kは斯う云って、口を噤んで了う。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんとうは泣き出すほかないと云っ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・波の間に枕などが浮いていると恐ろしいもののような気がした。その島には井戸が一つしかなかった。 暗礁については一度こんなことがあった。ある年の秋、ある晩、夜のひき明けにかけてひどい暴風雨があった。明方物凄い雨風の音のなかにけたたましい鉄工・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ ああ百円あったらなアと思うと、これまで金銭のことなどさまで自分を悩ましたことのないのが、今更の如くその怪しい、恐ろしい力を感じて来る。ただ百円、その金銭さえあれば、母も盗賊にはなるまいものを。よし母は盗みを為たところで、自分にその金銭・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ これは恐ろしいことだ。青年たちがどんな娘を好み娘たちがどんな青年を欲するかは実に次のゼネレーションの質と力と色とを動かすのだ。 そこで青年男女には、人類の健康と進歩性とを私たちが信じることができるような好み方、選び方をしてもらいた・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・怖くて恐ろしい気がした。人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識外に於て、罪を犯していることがある。彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・しかしよしや大智深智でないまでも、相応に鋭い智慧才覚が、恐ろしい負けぬ気を後盾にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰されぬもののあることを思わせる。 客は無雑作に、「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
一 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わ・・・ 幸徳秋水 「死生」
誰よりも一番親孝行で、一番おとなしくて、何時でも学校のよく出来た健吉がこの世の中で一番恐ろしいことをやったという――だが、どうしても母親には納得がいかなかった。見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・これが自分の家かと思うと、なんだか恐ろしいようなうれしいような気がして来たとしたのもある。だれに気兼ねもなく、新しい木の香のする炉ばたにあぐらをかいて、飯をやっているところだとしたのもある。 ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ それからまたどんどんいきますと、今度はおおぜいの大男が、これも食べものに飢えて、たった一とかたまりのパンを奪い合って、恐ろしい大げんかをしていました。ウイリイは気をきかせて、すぐに百樽のパンをやりました。大男たちは大そうよろこんで、ぺ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫