・・・すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。「どうした?」「いえ、どうもしないのです。……」 妻はやっと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だか・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見もせずに足にまかせてそのあとに※いて行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた・・・ 有島武郎 「親子」
・・・走れば十分とはかからぬ間なれど肥った自分には息切れがしてほとんどのめりそうである。ようやく家近く来ると梅子が走ってきた。自分はまた、「奈々子は泣いたか」「まだ泣かない、お父さんまだ医者も来ない」 自分はあわてながらもむつかしいな・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・時には手帛を赤く染め、またはげしい息切れが来て真青な顔で暗い街角にしゃがんだまま身動きもしない。なにか動物的な感覚になって汚いゴミ箱によりかかったりしている。当然街は彼を歓迎せず、豚も彼を見ては嘔吐を催したであろう。佐伯自身も街にいる自分が・・・ 織田作之助 「道」
・・・そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗をするばかり・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・と思ってはその期待に裏切られたり、今日こそは医者を頼もうかと思ってはむだに辛抱をしたり、いつまでもひどい息切れを冒しては便所へ通ったり、そんな本能的な受身なことばかりやっていた。そしてやっと医者を迎えた頃には、もうげっそり頬もこけてしまって・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬ばりついている。彼は唾液を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。「・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・こう言われてみればそうであるが、自分はただなんとなくここをのぞく気にならないでいつでもすぐに正面の階段を登って行く、そして二階の床に両足をおろすと同時に軽い息切れと興奮を感じるのである。 階段を上って右側に帳場がある。ある人はこれを官衙・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・そして息切れがした。けれども事件がここまで進展して来た以上、後の二人の来ない中に女を抱いてでも逃れるより外に仕様がなかった。「サア、早く遁げよう! そして病院へ行かなけりゃ」私は彼女に云った。「小僧さん、お前は馬鹿だね。その人を殺し・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫