・・・私は墨汁のようにこみあげて来る悔恨といらだたしさの感情で、風景を埋めてゆく影を眺めていた。そして落日を見ようとする切なさに駆られながら、見透しのつかない街を慌てふためいてうろうろしたのである。今の私にはもうそんな愛惜はなかった。私は日の当っ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それを見ると堯の心には墨汁のような悔恨やいらだたしさが拡がってゆくのだった。日向はわずかに低地を距てた、灰色の洋風の木造家屋に駐っていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。 冬陽は郵便・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 制え難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地に宛行ったり、その上から白粉を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景が、唯涙脆かったような人だけに、余計可哀そう・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・「あります。悔恨です。」こんどは、打てば響くの快調を以て、即座に応答することができた。「悔恨の無い文学は、屁のかっぱです。悔恨、告白、反省、そんなものから、近代文学が、いや、近代精神が生れた筈なんですね。だから、――」また、どもってしま・・・ 太宰治 「鴎」
・・・一生懸命に金をためて、十二三円たまったから、それを持ってカフェへ行き、もっともばからしく使って来ました。悔恨の情をあてにしたわけですね。」「それで書けましたか。」「駄目でした。」 僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ばかな事と知りながら実行して、あとで劇烈な悔恨の腹痛に転輾する。なんにもならない。いくつになっても、同じ事を繰り返してばかりいるのである。こんどの旅行も、これは、ばかな旅行だ。なんだって、佐渡なんかへ、行って来なければいけないのだろう。意味・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・から出てしまったのであるが、宿へ帰って、少しずつ酔のさめるにつれ、先刻の私の間抜けとも阿呆らしいともなんとも言いようのない狂態に対する羞恥と悔恨の念で消えもいりたい思いをした。湯槽にからだを沈ませて、ぱちゃぱちゃと湯をはねかえらせて見ても、・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・を意味する言葉と関係があるそうで、一方ではまたスウェーデンの「悔恨」を意味する nger に通ずる。このオンゲルは「オコル」に似ている。 怒りを意味する choler はギリシアの胆汁のコレーから来ているそうで、コレラや gall や ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・わたくしはそのいずれを思返しても決して慚愧と悔恨とを感ずるようなことはない。さびしいのも好かったし、賑なのもまたわるくはなかった。涙の夜も忘れがたく、笑の日もまた忘れがたいのである。 大久保に住んでいたころである。その頃家にいたお房とい・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む……。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。 ○ 七十になる日もだんだん近くなって来た・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫