・・・イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。「死んだ夢を見ました。・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・永き後に悟りをきはめて仏のみ前にて名をあげ給へかし云々」 母性の愛の発動する形は大体右の例のように、本能的感情と、養、教育の物質のための犠牲的労働と、精神的薫陶のためのきびしい訓誡と切なる願訴との三つになって現われるように思う。 動・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・そこに人間の最も人間らしい悩みの中心課題があり、そこからまた従って英知とか諦めとか悟りとかいうものが育ってくるのである。人生の離合によって鍛えられない霊魂の遍歴というものは恐らくないであろう。 合うとか離れるとかいうことは実は不思議なこ・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・気に入らなかったことは皆忘れても、いいところは一つ残らず思い出す、未練とは悟りながらも思い出す、どうしても忘れきってしまうことは出来ない。そうかと云ってその後はどういう人に縁付いて、どこにその娘がどう生活しているかということも知らないばかり・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・同じく祭りのための設けとは知られながら、いと長き竿を鉾立に立てて、それを心にして四辺に棒を取り回し枠の如くにしたるを、白布もて総て包めるものありて、何とも悟り得ず。打見たるところ譬えば糸を絡う用にすなるいとわくというもののいと大なるを、竿に・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・すなわち、きっと悟り顔であること。われから惑乱している姿は、たえて無い。一方的観察を固持して、死ぬるとも疑わぬ。真理追及の学徒ではなしに、つねに、達観したる師匠である。かならず、お説教をする。最も写実的なる作家西鶴でさえ、かれの物語のあとさ・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・悔いあらための、いまは行いすました悟り顔、救世軍か何か。似ているぞ。また、叱られた供奴の、頭かきかき、なるほどねえ、考えれば考えるほど、こちとらの考え浅うござんした、えへっへっへ、と、なにちっとも考えてやしない、ただ主人への御機嫌買い。似て・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもど・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・三 人種の発達と共にその国土の底に深くも根ざした思想の濫觴を鑑み、幾時代の遺伝的修養を経たる忍従棄権の悟りに、われ知らず襟を正す折しもあれ。先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午飯過ぎ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・彼らの頭脳の組織は麁そこうにして覚り鈍き事その源因たるは疑うべからず」カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の好一対である。余がかくのごとく回想しつつあった時に例の婆さんがどうです下りましょうかと促がす。 一層を下るごとに下界に近づ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫