・・・しからざるかぎり、たとえ、積極的には、間違ったことを伝えなくとも、そこに、喜びがなく、たゞあるものが、怠屈ばかりであったら、それは、何も与えなかったことになるばかりでなく、徒らに、読者をして、焦燥に悶えしめるものです。 事務的に書かれた・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・狂人のような悶えでそれを引き裂き、私を殺すであろう酷寒のなかの自由をひたすらに私は欲した。 こうした感情は日光浴の際身体の受ける生理的な変化――旺んになって来る血行や、それにしたがって鈍麻してゆく頭脳や――そう言ったもののなかに確かにそ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ そのうちだんだん眼が悪くなる一方で役所は一月以上も休んでいるし、私は気が気でならず、もし盲目になったらという一念が起るたびに、悶え苦しみました。 ここに怪しいことのございますのは、お俊の様子がひどく変ったことでございます、なんとな・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ おげんは父が座敷牢の格子のところで悲しみ悶えた時の古歌も思出した。それを自分でも廊下で口ずさんで見た。「きりぎりす 啼くや霜夜のさむしろに、ころもかたしき独りかも寝む……」 最早、娘のお新も側に・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。「最早マイりましたかネ」と学士も笑った。 間もなく学士は高瀬と一緒に成った。二人が教員室の方へ戻って行った時は、誰もそこに残っていなかった。桜井先生の室の戸・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・思えば、寒雀もずいぶんしばらく食べなかったな、と悶えても、猛然とそれを頬張る蛮勇は無いのである。私は仕方なく銀杏の実を爪楊枝でつついて食べたりしていた。しかし、どうしても、あきらめ切れない。 一方、女どもの言い争いは、いつまでもごたごた・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・にっちもさっちも行かない自分のいまの身の上が、いやにハッキリ自覚せられ、額に油汗がわいて出て来て、悶え、スズメにさらにウイスキイを一本買わせる。飲む。抱く。とろとろ眠る。眼がさめると、また飲む。 やがて夕方、ウイスキイを一口飲みかけても・・・ 太宰治 「犯人」
・・・職務ゆえ、懸命にこらえて、当りまえの風を装って教えているのだ、それにちがいないと思えば、なおのこと、先生のその厚顔無恥が、あさましく、私は身悶えいたしました。その生理のお時間がすんでから、私はお友達と議論をしてしまいました。痛さと、くすぐっ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・苦痛に悶えながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調べがなんだか全身に沁み入るように覚えた。 疼痛、疼痛、かれはさらに輾転反側した。 「苦しい! 苦しい! 苦しい!」 続けざまにけたたましく叫んだ。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・強い人にも嘆き悲しみ悶えはある。しかしそれは弱いもののそれとは何処かちがった響がある。 宇都野さんの歌の音調にはやはり自ずからな特徴がある。それは如何なる点に存するか明白に自覚し得ないが、やはり子音母音の反復律動に一種の独自の方式がある・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
出典:青空文庫