・・・ フレンチの向側の腰掛には、為事着を着た職工が二三人、寐惚けたような、鼠色の目をした、美しい娘が一人、青年が二人いる。 フレンチはこの時になって、やっと重くるしい疲が全く去ってしまったような心持になった。気の利いたような、そして同時・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・千日前から法善寺境内にはいると、そこはまるで地面がずり落ちたような薄暗さで、献納提灯や灯明の明りが寝呆けたように揺れていた。境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。何か胸に痛いような薄暗さと思われた。前方に光が眩しく横に流れて・・・ 織田作之助 「雨」
・・・私は自分の精神の衛生上、演説呆けという病気をかねがね怖れていたのである。 鼻血が出たので、私は鼻の穴に紙片をつめたまま点呼を受けた。査閲の時点呼執行官は私の顔をジロリと見ただけで通り過ぎたが、随行員の中のどうやら中尉らしい副官は私の鼻を・・・ 織田作之助 「髪」
・・・をしたり、愚にもつかぬ講演を聞いたりするために、あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費したくないですからね、整列や敬礼が上手になっても、原子爆弾は防げないし、それに講演を聴くと、一種の講演呆けを惹き起しますからね、呆けたまま死ぬ・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・ズルチン呆けしたかな」ズルチンはサッカリンより甘いが、脳に悪影響があるからやめろと、最近友人の医者から聴いていた。「――誰だか忘れたが、たぶん返しに来た筈だ。押入の中にはいっていないか」「さア」と、それでも押入の戸は明けて、「―・・・ 織田作之助 「世相」
・・・待ち呆けをくっている女の子の姿勢で、ハンドバックからあの人の手紙をだして、読み直してみた。その日の打ち合わせを書いたほかに、僕は文楽が大好きです、ことに文三の人形はあなたにも是非見せてあげたいなどとあり、そのみみずが這うような文字で書かれた・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・姑はなにか呆けているような貌だった。「疲れてますね。どうでした。見つかりましたか」「気の進まない家ばかりでした。あなたの方は……」 まあ帰ってからゆっくりと思って、今日見つけた家の少し混み入った条件を行一が話し躊っていると、姑は・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・それは間違いないのだ、呆けたのだ、けれども、――と言いかけて、あとは言わぬ。ただ、これだけは信じたまえ。「私は君を、裏切ることは無い。」 エゴが喪失してしまっているのだ。それから、――と言いかけて、これも言いたくなし。もう一つ言える。私・・・ 太宰治 「鴎」
・・・まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて坐り直した。「木下さん。困りますよ。」そう言って、例の熨斗袋を懐から出したのである。「これは、いただけません。」・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「寝呆けていやがる。僕は、そんな名前じゃないよ。」「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」「へんな事を聞くよ・・・ 太宰治 「乞食学生」
出典:青空文庫