・・・ これくらいのこと言われたって泣く奴があるか! 意気地なしめ!」「だって……人のことを……猿面だなんて……二人でばかにするんだもの……」と、彼はすすりあげながら言った。 こう聞いて、私は全身にヒヤリとしたものを感じて、口を緘じた。二・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・「女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理会りますが、その時の僕は左まで世にすれていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆さを堪え忍びながら如何にもして前の通りに為たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことを・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・何と意気地なき男よ! 思えば母が大意張で自分の金を奪い、遂に自分を不幸のドン底まで落したのも無理はない。自分達夫婦は最初から母に呑れていたので、母の為ることを怒り、恨み、罵ってはみる者の、自分達の力では母をどうすることも出来ないのであっ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・が、この際夫としてはなるべく妻を共稼ぎさせないようにするのが夫婦愛であり男の意気地である。妻の方では共稼ぎもあえて辞しないという心組みでいてほしいものだ。 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」 武石は反撥した。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。「ガーリヤ、ガーリヤ、今晩は!」 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。「ガーリヤ!」「何だい。」 ウラジオストッ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲して置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者を悦んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をの・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・これはならぬと、あわてて膝を固くして、うなだれると、意気地が無いと言って叱られる。どんなにしても、だめであった。私は、私自身を持て余した。兄の怒りは、募る一方である。 幽かに、表の街路のほうから、人のざわめきが聞えて来る。しばらくして、・・・ 太宰治 「一燈」
・・・そんなに気乗りがしないのなら、なぜ、はるばる北京からやって来たのだ、と開き直って聞き糺したかったが、私も意気地の無い男である。ぎりぎりのところまでは、気まずい衝突を避けるのである。「立派な家庭だぜ。」私には、そう言うのが精一ぱいの事であ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。 疼痛は波のように押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣を噛み、歯をくいしばり、脚を両・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったという事にでもなるだろうか。 魔術師でない限り、何もない真空からたとえ一片の浅草紙でも創造する事は出来そうに思われない。しかし紙の材料をもっと精選し、もっとよくこなし、もういっそうよ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
出典:青空文庫