・・・私は限りない愛惜をもって、紙幅の許すまで彼自らの文章に語らせたい。「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。ただいま召使いの者たちに、舟の仕度をさせて居ります。あれに乗って、故郷へまっすぐにお帰りなさい。さようなら。」と言・・・ 太宰治 「竹青」
・・・着物を、皮膚と同様に愛惜している。その着物が、すっと姿を消しているのを発見する度毎に、肋骨を一本失ったみたいな堪えがたい心細さを覚える。生きて甲斐ない気持がする。けれどもいまは、兄を信じて待っているより他は無い。あくまでも、兄を信じようと思・・・ 太宰治 「花火」
・・・品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土方の親方な・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・何物にかぎらず多年使い馴れた器物を愛惜して、幾度となく之を修繕しつつ使用していたような醇朴な風習が今は既に蕩然として後を断ったのも此の一事によって推知せられる。 明治三十年の春明治座で、先代の左団次が鋳掛松を演じた時、鋳掛屋の呼び歩く声・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・しかし静に考察すれば芸術家が土耳古の山河風俗を愛惜する事は、敢て異となすには及ばない。ピエール・ロチは欧洲人が多年土耳古を敵視し絶えずその領土を蚕食しつつある事を痛嘆して『苦悩する土耳古』と題する一書を著し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・然し彼の意識しない愛惜と不安とが対手に愁訴するように其声を顫わせた。殺すなといえばすぐ心が落ち付いて唯其犬が不便になったのである。然し対手は太十の心には無頓着である。「おっつあん殺すのか」 斯ういう不謹慎ないいようは余計に太十を惑わ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・所有と云う事と愛惜という事は大抵の場合において伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる者である。「俺の家だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんだ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 婆さんは荒っぽい愛惜を現した顔で子供を眺めながら云った。「乗りたいの、やっと辛棒してるんだよ。ね? そうだろう?」「そうさ、今が今まで一緒に行く気でいたんだもの」「又この次のとき行くさ。どうせ一晩泊りだもん――あっちじゃ伯・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・由子は一種の愛惜を面に表して、藤紫の組紐をしごいたりしたが、やがて丁寧にそれを畳んで、お清さんの前へ置いた。「あなた大働きだから、勲章にこれさし上げます」「おやまあ」 お清さんは、笑いながらそれを戴いた。「恐れ入ります。じゃ・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
出典:青空文庫