・・・ あのように純一な、こだわらず、蒼穹にもとどく程の全国民の歓喜と感謝の声を聞く事は、これからは、なかなかむずかしいだろうと思われる。願わくは、いま一度。誰に言われずとも、しばらくは、辛抱せずばなるまい。・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ 陶工が陶土およびその採掘者に対して感謝の辞を述べる場合は少ない。これは不都合なようにも思われるが、よく考えてみると、名陶工にはだれでもはなれないが、土を掘ることはたいていだれにでもできるからであろう。 独創力のない学生が、独創力の・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・心を少しく引込め、引廻した屏風の端を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後の煙管を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろし・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・二王子幽閉の場と、ジェーン所刑の場については有名なるドラロッシの絵画がすくなからず余の想像を助けている事を一言していささか感謝の意を表する。舟より上る囚人のうちワイアットとあるは有名なる詩人の子にてジェーンのため兵を挙げたる人、父子・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・八 秋 その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よくできましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるように思いまし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ れんは、感謝に堪えない眼をあげて、幾度も幾度も扉の把手につかまったまま腰をかがめた。「有難うございます。年をとりますと彼方此方ががたがたになりましてね。本当にまあ!」 彼女は、丁寧に辞宜をした。「有難うございます」 そ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ここらで省筆をするのは、読者に感謝して貰っても好い。 尤もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩の時、千住で小休みをする度毎に、緒方の家が御用を承わることに極まっていた。花房の父があの家・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ お霜は妹にそう云っている安次の声からも感謝の気持を見出した。そして、自分が預る「仏の利生」を、それだけ妹の方に分けられはすまいかと、今さら不安な気持が起って来ると、自分よりも先に医者を迎えに行ったお留の仕打ちに微かな嫉妬を感じて来た。・・・ 横光利一 「南北」
・・・なって、心に畳まってる思いの数々が胸に波を打たせて、僕をジット抱〆ようとして、モウそれも叶わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開けて、神に感謝の一言「神よ、オオ神よ、日々年々のこ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫