・・・内蔵助もやはり、慇懃に会釈をした。ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 女は慇懃に会釈をした。貧しい身なりにも関らず、これだけはちゃんと結い上げた笄髷の頭を下げたのである。神父は微笑んだ眼に目礼した。手は青珠の「こんたつ」に指をからめたり離したりしている。「わたくしは一番ヶ瀬半兵衛の後家、しのと申すも・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北訛の声をかけた。「いや、あなたが御見えになってから、申し上げ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 粟野さんの前に出た保吉は別人のように慇懃である。これは少しも虚礼ではない。彼は粟野さんの語学的天才に頗る敬意を抱いている。行年六十の粟野さんは羅甸語のシイザアを教えていた。今も勿論英吉利語を始め、いろいろの近代語に通じている。保吉はい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 南田は銅檠の火を掻き立ててから、慇懃に客を促した。 * * * 元宰先生(董其昌が在世中のことです。ある年の秋先生は、煙客翁と画論をしている内に、ふと翁に、黄一峯の秋山図を見たかと尋ねました。・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・ 突如噛着き兼ねない剣幕だったのが、飜ってこの慇懃な態度に出たのは、人は須らく渠等に対して洋服を着るべきである。 赤ら顔は悪く切口上で、「旦那、どちらの麁そそうか存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。こ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・言つきは慇懃ながら、取附き端のない会釈をする。「私だ、立田だよ、しばらく。」 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢のない、塗ったような瞳を流して、凝と見たが、「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支いた。胸を・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・加うるに慇懃なる会釈だろう。けれども、この恭屈頂礼をされた方は――また勿論されるわけもないが――胸を引掻いて、腸でもむしるのに、引導を渡されでもしたようで、腹へ風が徹って、ぞッとした。 すなわち、手を挙げるでもなし、声を掛けるでもなし、・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃に会釈をされたのは、焼麸だと思うの加料が蒲鉾だったような気がした。「お客様だよ――鶴の三番。」 女中も、服装は木綿だが、前垂がけのさっぱりした、年紀の少い色白な・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・していないが、その意味は、私のペン・ネエムは知っていても本名は知らなかったので失礼した、アトで偶っと気がついて取敢えずお詫びに上ったがお留守で残念をした、ドウカ悪く思わないで復た遊びに来てくれという、慇懃な、但し率直な親みのある手紙だった。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫