・・・平生の知己に対して進退行蔵を公明にする態度は間然する処なく、我々後進は余り鄭重過ぎる通告に痛み入ったが、近い社員の解職は一片の葉書の通告で済まし、遠いタダの知人には頗る慇懃な自筆の長手紙を配るという処に沼南の政治家的面目が仄見える心地がする・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 社交的応酬は余り上手でなかったが、慇懃謙遜な言葉に誠意が滔れて人を心服さした。弁舌は下手でも上手でもなかったが話術に長じていて、何でもない世間咄をも面白く味わせた。殊に小説の梗概でも語らせると、多少の身振声色を交えて人物を眼前に躍出さ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 校長は慇懃に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、「御病気は如何で御座いますか」「どうも今度の病気は爽快せん」という声さえ衰えて沈んでいる。「御大事になされませんと……」「イヤ私も最早今度はお暇乞じゃろう」・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・自分が慇懃にあいさつする言葉を打ち消して、『いやそうあらたまれては困る。』かれは酒気を帯びていた。『これが土産だ。ほかに何にもない、そら! これを君にくれる、』と投げだしたのは短刀であった。自分はその唐突に驚いた。かかる挙動は決して以前・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・もし若者であったら、帽を取って慇懃に問いたまえ。鷹揚に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。 教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・と慇懃に勧めた。が、主人はそれを顧みもせずやっぱり毀れた猪口の砕片をじっと見ている。 細君は笑いながら、「あなたにもお似合いなさらない、マアどうしたのです。そんなものは仕方がありませんから捨てておしまいなすって、サアーツ新規に召・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・私は、いまこの井の頭公園の林の中で、一青年から頗る慇懃に煙草の火を求められた。しかもその青年は、あきらかに産業戦士である。私が、つい先刻、酒の店で、もっとこの人たちに対して尊敬の念を抱くべきであると厳粛に考えた、その当の産業戦士の一人である・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・これもまた、君たちが洋行している間に身につけた何かしらではなかろうかと私は思っている。慇懃と復讐。ひしがれた文化猿。 みじめな生活をして来たんだ。そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。隠すなよ。 私事ではあるが、思い出すこ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・と妻は横合から口を出して、「ございませんでしょうか。」「あるには、ありますけど。」「ぜひ、どうか、お願い致します。」と妻は慇懃にお辞儀をした。 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二・・・ 太宰治 「薄明」
・・・なるほど、バスの乗客の大部分はこの土地の人らしく、美しい姉妹に慇懃な会釈をする。どちらまで? と尋ねる人もある。「は、船津まで、買い物に。」律子は澄まして嘘を吐いている。完全に、三浦君の存在を忘れているみたいな様子だ。けれども、貞子は、・・・ 太宰治 「律子と貞子」
出典:青空文庫