・・・そして何んという慈愛。 祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。殊にこの朝はその回想が厳しく心に逼った。 今朝の夢で見た通り、十歳の時眼のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影はその後クラ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ ――今朝も、その慈愛の露を吸った勢で、謹三がここへ来たのは、金石の港に何某とて、器具商があって、それにも工賃の貸がある……懸を乞いに出たのであった―― 若いものの癖として、出たとこ勝負の元気に任せて、影も見ないで、日盛を、松並木の・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・若衆たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤の福々しいのに、円々とした両肱の頬杖で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、黙って金箱から、ずらりと掴出して渡すのが、掌が大きく、慈愛が余るから、……痩ぎすで華奢なお桂ち・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ この御慈愛なかりせば、一昨日片腕は折れたであろう。渠は胸に抱いて泣いたのである。 なお仏師から手紙が添って――山妻云々とのお言、あるいはお戯でなかったかも存ぜぬが、……しごとのあいだ、赤門寺のお上人が四五度もしばしば見えて、一定そ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・省作が気ままをすれば、それだけ母は家のものたちの手前をかねて心配するのである。慈愛のこもった母の小言には、省作もずるをきめていられない。「仕事のやり始めはだれでも一度はそういうものだよ。何が病気なもんか。仕事着になって、からだが締まれば・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 春になって、花が咲いても、初夏が至って、新緑に天地はつゝまれても、心から、自然を味い、また、愛する余裕を持たず、その慈愛心もなく、いたずらに、虚名につながれている輩の如き、いかに卑しいことか。私は、いまにして、生活の意義を考えるのであ・・・ 小川未明 「自由なる空想」
・・・ しかし、今の世の中で、この春に遇って、木々の咲く、花を眺め、この若やかな、どんな絵具で描いてみても、この生命の跳る色は出せないような、新緑に見入って、意味深い自然に対して、掬み尽されない慈愛を感ずる人が、幾何ありましょうか。 其れ・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・ そういう人達にとっては、人間に対する、真の慈愛ということも、信義ということも欠けているのだ。 しかし、若し、その人達が、人間についてほんとうに考えるなら、そして、人間を愛する心があるなら、現在、みんなが、人間に対して抱いているよう・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・また普通にいって品行正しい、慈愛深いというだけでもやはりいま一息である。その正しいとか、いつくしみとかいうものが信仰の火で練られて、柔くなり、角がとれ、貧しくならねばならない。 信仰というものがなくては女性として仕上げができていないとい・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・く思いし冬吉の眉毛の蝕いがいよいよ別れの催促客となるとも色となるなとは今の誡めわが讐敵にもさせまじきはこのことと俊雄ようやく夢覚めて父へ詫び入り元のわが家へ立ち帰れば喜びこそすれ気振りにもうらまぬ母の慈愛厚く門際に寝ていたまぐれ犬までが尾を・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫