・・・が、果して寝室の中には、飼い馴れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たし・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。 彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当・・・ 有島武郎 「親子」
・・・その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、しまいには夜が明けると犬のことを思い出して「クサカは何処に居るかしらん」などと話し合うようになった。 このクサカという名がこういう風に初めてこの犬に附けられた。稀には昼間も木立の茂った中にクサカの姿が・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・やがてその暗の中に、自分の眼の暗さに慣れてくるのをじっと待っているような状態も過ぎた。 そうして今、まったく異なった心持から、自分の経てきた道筋を考えると、そこにいろいろいいたいことがあるように思われる。 ~~~~~~~~~~・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。(まず・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ わが財産が牛であっても、この困難は容易なものでないにと思うと、臨時に頼まれてしかも馴れない人たちの事が気にかかるのである。自分はしばらく牛を控えて後から来る人たちの様子を窺うた。それでも同情を持って来てくれた人たちであるから、案じたほ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・政治家や実業家には得てこういう人を外らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に馴れない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに独りで定めてしまって同情や好意や推輓や斡旋を求めに行くと案外素気なく待・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・四 あいかわらず、その後も、町の方からは聞き慣れたよい音色が聞こえてきました。乳色の天の川が、ほのぼのと夢のように空を流れています。星は真珠のように輝いています。その夜、町の方からは、これまでにないよい音色が聞こえてきました・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・「いえね、あの病気は始終そう附き限りでいなけりゃならないというのでもないから……それに、今日佃の方から雇い婆さんを一人よこしてもらって、その婆さんの方が、私よりよっぽど病人の世話にも慣れてるんだから」「それじゃ、病人の方は格別快いて・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸など少しも珍らしくないのでしょう、しきりに欠伸などしていたが、私はしびれるような夜の世界の悩ましさに、幼い心がうずいていたのです。そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通ってきた二つ井戸よりもなお・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫