・・・猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・兎に角憎む時も愛する時も、何か酷薄に近い物が必江口の感情を火照らせている。鉄が焼けるのに黒熱と云う状態がある。見た所は黒いが、手を触れれば、忽その手を爛らせてしまう。江口の一本気の性格は、この黒熱した鉄だと云う気がする。繰返して云うが、決し・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。 己はあの男を以前から見知っている。渡左衛門尉と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にし・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・人の目にかからぬ木立の間を索めて身に受けた創を調べ、この寂しい処で、人を怖れる心と、人を憎む心とを養うより外はない。 たった一度人が彼に憫みを垂れたことがある。それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧不安の境涯にあってもなお悠々迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない。 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・緑雨に冷笑されて緑雨を憎む気には決してなれなかった。が、世間から款待やされて非常な大文豪であるかのように持上げられて自分を高く買うようになってからの緑雨の皮肉は冴を失って、或時は田舎のお大尽のように横柄で鼻持がならなかったり、或時は女に振棄・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔の冷めるまで故郷へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てYの退先きへ届けてくれたそうだ。普通の常識では・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 私一個の考から云えば、人を愛するという事も、憎むという事も同じである。憎み切ってしまう事が出来れば、そこに何等かこの人生に対して強い執着のある事を意味する。残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・況んや、私のように、逆境に立ち、尚お且つ反抗の態度に出て来た者を同情するより憎むのが寧ろ当然だったから。しかし、私は、真に自分を知ってくれた人でなければ、原稿を持って、頼みに行ったことがなかった。 あの時代の文壇の状況と、その交って来た・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストエフスキーでさえ、貧乏ということはいゝことだが、貧乏以上の生活というものは呪うべきものだと云っている。それは神の偉大を以てしても救うことが出来ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫