・・・ 日が沈むころになると、毎日のように、海岸をさまよって、青い、青い、そして地平線のいつまでも暗くならずに、明るい海に憧れるものが幾人となくありました。海は、永久にたえず美妙な唄をうたっています。その唄の声にじっと耳をすましていると、いつ・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・といって、くまは、かごの外の自然に憧れるのでした。「ああ、自由に放たれていて、しかも、羽すら持ちながら、それができないとは、なんという情けないことだ……。」と、くまは、はがゆがりました。汽車は、いくつかの停車場にとまりました。けれど鶏は・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・ しかし泣けない私たちが憧れるのは、とにもかくにも泣けた青春時代であろう。私の一生には私を泣かせるような素晴らしい女はもはや現われないだろうが、しかしよしんばつまらない女とでも泣けた時代が羨ましいのである。ひとの羨むような美女でも、もし・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・田舎者の癖に、派手なものに憧れる、あの哀れな弱点もあるのでしょう。先日のラジオは、君には聞かせたくないと思い、君に逢ってもその事に就いては一言も申し上げず、ひた隠しに隠していたのですが、なんという不運、君が上野のミルクホオルで偶然にそれを耳・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・この男は昔からそうだが、どうも若い女に憧れるという悪い癖がある。若い美しい女を見ると、平生は割合に鋭い観察眼もすっかり権威を失ってしまう。若い時分、盛んにいわゆる少女小説を書いて、一時はずいぶん青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあく・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・そして、その真理は、只真理に憧れる事を知って居る霊のみが為し能う事なのだと云う事を、私共は忘れてはいけない。若し、子を産む事のみが結婚の全的使命であり、価値であるならば、或場合、非常に相互の魂を啓発し、よき生活に導き合った一対の夫婦が、一人・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・ こちらの婦人の華美と、果を知らぬ奢沢は、美そのものに憧れるのではなくて、一顆の尊い宝石に代る金を暗示するから厭でございます。 けれども、斯様に、種々の差別を以て生活して居る幾千万かの婦人を透して、持って居る何物かもございます。・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・又、ともに最古の原始をも愛し、憧れる。野を愛し、部族の生活を思い出し単純に、純朴にと一方の心は流れ囁く。而も、一方は無限の視覚、聴覚、味覚を以て細かく 細かく、鋭く 鋭くと生存を分解する、又組立てる。・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・それこそは青春のかえがたい贈物である知識欲や成長への欲望、よりよい生活へ憧れるみずみずしい心の動きは、現実にぶつかって、一つ一つその強さを試みられているわけだが、その現実は、青春の思いや人間の成長をねがう善意に対して、何と荒っぽい容赦ない体・・・ 宮本百合子 「ものわかりよさ」
・・・ロマンティストであるとして荷風のロマン主義の実質はいわば憧れる心そのことに憧れる風なものである。受動的なロマンティストとでもいえようか。このロマン主義にあらわれている彼の受動性は、ヨーロッパ文化の伝統に対して、日本文化の伝統というものをいき・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
出典:青空文庫