・・・左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重にも同道を懇願した。甚太夫は始は苦々しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易に承け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎の取りなしを・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、哀憐を請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心ではない。禁ずる事が出来なかったら、どうすると云う、決心であ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 保吉はしばらく待たされた後、懇願するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継いだ。「主計官。わんと云いましょう・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 耳朶のちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。「どいつも、こいつも、病気を誇張・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・再三医者に懇願してよう/\自宅で療養することにして貰った。 高熱は永い間つゞいて容易に下らなかった。為吉とおしかとは、田畑の仕事を打ちやって息子の看護に懸命になった。甥の孝吉は一日に二度ずつ、一里ばかり向うの町へ氷を取りに自転車で走った・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・る学者の報告書にも見えていた事でございますが、その学者は、わざわざ伯耆国淀江村まで出かけて行ってその老翁に逢い、もし本当に一丈あるんだったら、よほど高い金を出して買ってもよろしい、ひとめ見せてくれ、と懇願したが、老翁はにやりと笑って、いれも・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・けれども瀬川さんは、なかなか気むずかしいお方ですから、引受けて下さるかどうか、とにかく、きょうこれから私が先生のお宅へお伺いして、懇願してみましょう。」 大きい失敗の無いうちに引上げるのが賢明である。思慮分別の深い結納のお使者は、ひどく・・・ 太宰治 「佳日」
・・・あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願する有様には、真剣なものがあった。ひとにものをたのまれて、拒否できるような男爵ではなかった。「ああ、いいよ。いいとも。」 撮影所から退去して、電車にゆられながら、男爵は、ひどく不愉快であっ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・草田氏は恥をしのんで、単身赤坂のアパートを訪れ、家へ帰るように懇願したが、だめであった。静子夫人には、鼻であしらわれ、取巻きの研究生たちにさえ、天才の敵として攻撃せられ、その上、持っていたお金をみんな巻き上げられた。三度おとずれたが、三度と・・・ 太宰治 「水仙」
・・・甚だ手紙で失礼ですが、ぜひ御承諾下さって御執筆のほど懇願いたします。『秘中の秘』編輯部。」「ははあ、蝙蝠は、あれは、むかし鳥獣合戦の日に、あちこち裏切って、ずいぶん得して、のち、仕組みがばれて、昼日中は、義理がわるくて外出できず、日・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
出典:青空文庫