・・・僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締っ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐かしい心持になる。私はこれを日本国民が・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ そのとき、露子は、いうにいわれぬ懐かしい、遠い感じがしまして、このいい音のするオルガンは船に乗ってきたのかと思いました。それからというもの、なんとなく、オルガンの音を聞きますと、広い、広い海のかなたの外国を考えたのであります。 な・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ 彼等は、この広い天地に、曾て、自分を虐遇したとはいえ、少年時代を其処に送った郷土程、懐かしいものを漂浪の間に見出さなかった事である。少年時代とその周囲即ち自然にも、人間にも特別のものがなくてはならぬ。こゝに童話文学の発生がある所以だ。・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・ 光治は心のうちで懐かしい少年だと思いながら、静かに少年の背後に立って、少年の描いている絵に目を落としますと、それは前方の木立を写生しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと描けていて、その木の色といい、土の色といい、空の感・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ 豊吉はしばらく杉の杜の陰で休んでいたが、気の弱いかれは、かくまでに零落れてその懐かしい故郷に帰って来ても、なお大声をあげて自分の帰って来たのを言いふらすことができない、大手を振って自分の生まれた土地を歩くことができない、直ちに兄の家、・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・お富は何とも言い難い、悲しいような、懐かしいような心持がした。 夜が大分更けたようだからお富は暇を告げて立ちかけた時、鈴虫の鳴く音が突然室のうちでした。「オヤ鈴虫が」とお富は言って見廻わした。「窓のところに。お梅さんが先達て琴平・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持ちで宮地を今宵の当てに歩いた。『一村離れて林や畑の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・お姉さんや、別れた人や、長いあいだ逢わずにいる人たちが懐かしい。どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンの臭いのように味気なく思い出されて、かなわない。 ジャピイと、カア(可哀想と、二匹もつれ合いなが・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・もっとも懐かしいのは郷里の故旧の名前が呼びだす幼き日の追憶である。そういう懐かしい名前が年々に一つ減り二つ減って行くのがさびしい。」 こういって感に堪えないように締りのない眉をあげさげする。「年賀はがきの一束は、自分というものの全生・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
出典:青空文庫