・・・たとえばこれを懐中しているとトランプでもその他の賭博でも必勝を期することができるというのであったらしい。もちろんこの効験は偶然の方則に支配されるのである。「丸葉柳」のほうはどんな物だか、何に使うのか、それについては自分の記憶も知識も全然・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・まず、忍び逢いの小座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るよ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」「ふん。君は大変詳しく調べているな」「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・品行が方正でないというだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊びをして、二尺に余る料理屋のつけを懐中に呑んで、蹣跚として登校されるようでは、教場内の令名に関わるのは無論であります。だからいかな長所があっても、この長所を傷ける短所があって、この短・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 吉里は懐中から手紙を十四五本包んだ紙包みを取り出し、それを小万の前に置いた。「この手紙なんだがね。平田さんから私んとこへ来た手紙の中で、反故にしちゃ、あんまり義理が悪いと思うのだけ、昨夜調べて別にしておいたんだよ。もうしまっておい・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・在昔の武家の婦人が九寸五分の懐剣を懐中するに等しく、専ら自衛の嗜みなりと知る可し。一 若き時は夫の親類友達下部等の若男には打解けて物語近付べからず。男女の隔を固すべし。如何なる用あり共、若男に文など通すべからず。 若・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ほんとにわたしたちは、「われつねに一本の鉛筆を懐中す」その鉛筆のしんは決して折られてはいないのだ、と思って、一本の鉛筆さえとりあげられるような生活を生き貫いて来たのですから。これからの幾波瀾のなかで、あなたの鉛筆、そしてわたしたちすべてのも・・・ 宮本百合子 「鉛筆の詩人へ」
・・・ 御はんがすんでから、わきを向いて御仙さんはふところから懐中かがみを出して一寸紅を唇にさしなおして小さいはけで口のまわりをはたいたりして居た。 私は世間の事も知らずほんとうにややさんのような人のくせにどうしてああ身のまわりの事には気・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉」と、常の詠草のように書いてある。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫