・・・他の瞽女はぽっさり懐手をして居る。みんな唄の疲が出たせいか深い思に沈んだようにして首をかしげて居る。太十は尚お去ろうともしなかった。突然戸が開いた。太十は驚いて身を引いた。其機会に流し元のどぶへ片足を踏ん込んだ。戸を開けたのは茶店の女房であ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・なお進んで云うと元のままで懐手をしていては生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのである・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・るいは婆さんの臍繰だとか中には因縁付きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭でもって懐手をして遊んでいられるという訳でしょう・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・その時分の私は卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていいか知らなかったほどの迂濶者でしたが、さていよいよ世間へ出てみると、懐手をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、どこかへ潜り・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・寒い寒い板のような空気の中で、手は懐手が出来るが耳は懐へしまえないから霜やけをかゆがりながら、その日記の部分をみていたら、私にとってまことに興味ある一文に出会いました。 それは、明治四十二年三月二十日の日記です。漱石は「二葉亭露西亜で結・・・ 宮本百合子 「含蓄ある歳月」
・・・茶をいれる間も、下島のおじさんは片手を黒木綿の羽織のなかへ懐手したままだった。 高窓のところによりかかって、溢れそうにいっぱい注いだ茶わんへ顔をもって行って、高い音をたててお茶をすすり、頬をピクリピクリとさせながら、よく面白くなさそうに・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ すぐ目の先に百日紅の赤く咲いて居る縁側を、懐手のまま、所在なさそうにブラリブラリして居るのなどをチラリと見た事もある。 あんな痩せた体で、よくあれだけの人数を食わして行けると、まるで自分に関係の無い事ではあるけれ共、あんまりその人・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・首に毛糸で編んだ赤や紫の頸巻の様なものを巻きつけて懐手をして、青っぱなを啜り上げ啜りあげ、かさかさな顔をして広い往還の中央にかたまって居る。犬同志をけしかけてけんかをさせたり、猫に悪戯をしかけたりして居る。 女の子は、一本三四銭位の花か・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫