・・・昔一高の校庭なる菩提樹下を逍遥しつつ、談笑して倦まざりし朝暮を思えば、懐旧の情に堪えざるもの多し。即ち改造社の嘱に応じ、立ちどころにこの文を作る。時に大正壬戌の年、黄花未だ発せざる重陽なり。・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・監督も懐旧の情を催すらしく、人のいい微笑を口のはたに浮かべて、「ほんとにそうでした」 と気のなさそうな合槌を打っていた。 そのうちに夜はいいかげん更けてしまった。監督が膳を引いてしまうと、気まずい二人が残った。しかし父のほうは少・・・ 有島武郎 「親子」
・・・今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無いのは創傷よりも余程いかぬ! さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼という・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 何年か前まではこの温泉もほんの茅葺屋根の吹き曝しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・繰り返しても繰り返しても飽くを知らぬのは、またこの懐旧談で、浮き世の波にもまれて、眉目のどこかにか苦闘のあとを残すかたがたも、「あの時分」の話になると、われ知らず、青春の血潮が今ひとたびそのほおにのぼり、目もかがやき、声までがつやをもち、や・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 盲人は懐旧の念に堪えずや、急に言葉を止めて頭を垂れていたが、しばらくして(聴者の誰人「けれどもこれはあたりまえでございます、母はまるで私のために生きていましたので、一人の私をただむやみと可愛がりました。めったに叱ったこともありませ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・それはとにかく、彼が近頃急に懐旧的の傾向を帯びて来たのはどういう訳であろう。人は水に溺れんとする瞬間に過去の生涯全部の幻影を見るそうである。事によると彼もさきが短くなった兆ではないかと密かに心配している友人もある。そのせいでもあるまいが、彼・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・左れば生者が死者に対して情を尽すは言うまでもなく、懐旧の恨は天長地久も啻ならず、此恨綿々絶ゆる期なしと雖も、冥土人間既に処を殊にすれば、旧を懐うの人情を以て今に処するの人事を妨ぐ可らず。一瞥心機を転じて身外の万物を忘れ、其旧を棄てゝ新惟れ謀・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じいやしむ者ありされどもさすが故園情に堪えずたまたま親里に帰省するあだ者なるべし浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑い下さるべく候実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情に・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫