・・・城の後ろは切り立てたような懸崖で深く見おろす直下には真黒なキイファアの森が、青ずんだ空気の底に黙り込んでいた。「国の歴史や伝説やまたお伽話でもその国の自然を見た後でなければやっぱり本当には分らない。」誰かの云ったこんな言葉を思い出しなが・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・危険を冒して懸崖にエーデルワイスを捜す人もある。昼提灯をさげて人を捜した男もあったのである。 しかしこれはあまりに消極的な考えかもしれない。自分はここでそういう古い消極的な独善主義を宣伝しようというのではない。また自然の野山に黙って咲く・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・それが、どれもこれも申し合わせたようにいわゆる「懸崖作り」に仕立てたものばかりである。同じ懸崖にしても、少しはなんとかちがった格好をしたのがあってもよさそうに思われるが、どれを見てもまるで鋳型に入れたようなもので、ばらの枝がみんな窮屈そうな・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・右舷に見える懸崖がまっかな紅殻色をしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。 西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出かける。祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる。つり橋のたもとの煙草屋を見つけて絵はがきと切・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・そして爪先下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く、ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心を抱いて同じ麓の景色を眺めながら、思いがけない懸崖や深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。しかし少数のあ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・札のかかっている横を入って菊畑へ行ってみたらば、そこの棚にのって飾られているのはどれも懸崖であった。綺麗にちがいないのだけれど、竹を添えられ、強いてもためられている花の姿は窮屈である。あたり前に咲いているのはないのかしら。そんなことを云いな・・・ 宮本百合子 「この初冬」
出典:青空文庫