・・・を成り上り者と蔭口云うように、この山荘庵の主人はわずか十四五年のうちに、この村中を買占めてしまった大地主だった。「ヨッチ――ヨッチ」 土堤下から畑のくろに沿うて善ニョムさんは、ヨロつく足を踏みしめ上ってくると、やがて麦畑の隅へ、ドサ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・売禁止、本屋からは損害賠償の手詰の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕に等しき悪名が、今はもっけの幸に、高等遊民不良少年をお顧客の文芸雑誌で飯を喰う売文の奴とまで成り下ってしまったが、さすがに筋目正しい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了ってしまうと、平生世間外に孤立している傍観者には却て一種奇異なる興味と薄い気味悪さとを覚えさせるようになる。 僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・剛き髪を五分に刈りて髯貯えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦し了って、からからと笑いながら、室の中なる女を顧みる。 竹籠に熱き光りを避けて、微かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・その階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、却って之を殺戮することによってのみ成り立ち得る。とするならば、「六神丸それ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・六に多言にて慎なく物いひ過すは、親類とも中悪く成り家乱るゝ物なれば去べし。七には物を盗心有るを去る。此七去は皆聖人の教也。女は一度嫁して其家を出されては仮令二度富貴なる夫に嫁すとも、女の道に違て大なる辱なり。 男子が養子に行くも・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・一句の曲なくては成りがたきゆえつよくいましめおきたるなり。木導が春風景曲第一の句なり。後代手本たるべしとて褒美に「かげろふいさむ花の糸口」という脇して送られたり。平句同前なり。歌に景曲は見様体に属すと定家卿もの給うなり。寂蓮の急雨定頼卿の宇・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・これまで文学の仕事というものは、今日にあっても室生氏が未だ業ならざる者は弾丸に当って死ぬがまし、と云っても自身その言葉に赤面しないですんでいるような、特殊な専門的修練を経て成り上った少数者の技術のように考えられていた。しかし、それならばと云・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
某儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。しかれば子孫のため事の顛末書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。 某祖父は興津右兵衛景通と申候。永正十一年駿河国興・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫