・・・慌て戦く心は潮のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さて・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・と何と、ひたわななきに戦く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」 御廚子の菩薩は、ちらちらと蝋燭の灯に・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 三声ばかり呼ぶと、細く目を開いて小宮山の顔を見るが否や、さもさも物に恐れた様子で、飛着くように、小宮山の帯に縋り、身を引緊めるようにして、坐った膝に突伏しまする。戦く背中を小宮山はしっかと抱いた、様子は見届けたのでありまするから、哀れ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。 思うに、見出・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・ 銀と黄金が考え深い様にまたたくと私の霊は戦く様に共にまたたき無声の声にほぎ歌を誦せばその余韻をうけて私も心の奥深くへと歌の譜を織り込んだ。 銀と黄金と私の心と―― 一つの大きなかたまりとなって偉大な宙に最善の舞を舞う。・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・と云う文をもって来たので早速衣をととのえてよろこびに戦く心をおさえながら母君の部屋の明障子の外から、「ごめん下さい私です」と声をかけると声のやさしい女は細目にあけて黛を一寸のぞかせて、「ようこそ、どうぞ御入りあそばして」・・・ 宮本百合子 「錦木」
出典:青空文庫