・・・ しかし僕は戦慄う手に力を入れて搬機を引いた。ズドンの音とともに僕自身が後ろに倒れた。叔父さんが飛び起きた。『何だ何だ危ない! どうしたッ?』と掬うようにして僕を起こした。僕はそのまま小藪のなかに飛び込んだ。そして叔父さんも続いて飛・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・懼れたというよりか戦慄した。「オイどうしたの? お前どうしたの?」と急きこんで問うたが、妻はその凄い眼で自分をじろりと見たばかりで一語も発しない。ふと気が着いて見ると、箪笥を入た押込の襖が開けっ放して、例の秘密の抽斗が半分開いていた。自・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・そこには、旅順攻囲戦の戦慄すべき困難と愛国的感情の熱烈な無数の将校の犠牲の山が書かれている。所どころ、実戦に参加した者でなければ書けないなま/\しい戦場の描写がある。後の銃後と相俟って、旅順攻囲の終始が記録的に、しかも、自分一個の経験だけで・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 不安に戦慄した松ツァンの声が井村の背後で、又、あとから来る担架に繰りかえされた。「…………」 そこでも、坑夫は、溜息をついて、眼を下へ落した。「うちの市三、別条なかったかなア!」 石炭酸の臭いがプン/\している病院の手・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。 いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・由るのもある、其計画し若くば着手せし事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある、子孫の計未だ成らず、美田未だ買い得ないで、其行末を憂慮する愛着に出るのもあろう、或は単に臨終の苦痛を想像して戦慄するのもあるかも知れぬ。 一々に・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於て、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たったこの一度だけであった。「おれは、勉強しだいでは、谷崎潤一郎には成れるけれども、井伏鱒・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・せいぜい華やかにやるがいい、と今は全く道義を越えて、目前の異様な戦慄の光景をむさぼるように見つめていました。誰も見た事の無いものを私はいま見ている、このプライド。やがてこれを如実に描写できる、この仕合せ。ああ、この男は、恐怖よりも歓喜を、五・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・神を眼のまえに見るほどの永遠の戦慄と感動。私は、それを知らせてもらいたいのだ。大げさな身振りでなくともよい。身振りは、小さいほどよい。花一輪に託して、自己のいつわらぬ感激と祈りとを述べるがよい。きっと在るのだ。全然新しいものが、そこに在るの・・・ 太宰治 「鴎」
・・・死と相面しては、いかなる勇者も戦慄する。 脚が重い、けだるい、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露、悪寒、確かに持病の脚気が昂進したのだ。流行腸胃熱は治ったが、急性の脚気が襲ってきたのだ。脚気衝心の恐ろしいことを自覚してかれは戦・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫