・・・それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。 私は時々ひそかに思う事がある、今の世に最も多く神秘の世界に出入するものは世間からは物質科学者と呼ばるる科学研究者ではあるまいか。神秘なあ・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・彼は相の悪い犬殺しが釣した蓆の間から覗くように思われて戦慄した。彼は目を開いた。柱に懸けたともし灯が薄らに光って居る。彼は風を厭うともし灯を若木の桐の大きな葉で包んだ。カンテラの光が透して桐の葉は凄い程青く見えて居る。其の青い中にぽっちりと・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見て・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄を感じた。 私は予感があった。この歪んだ階段を昇ると・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 再び彼の体を戦慄がかけ抜け、頭髪に痛さをさえ感じた。 電燈がパッと消えた。 深谷が静かにドアを開けて出て行った。 ――奴は恋人でもできたのだろうか?―― 安岡は考えた。けれども深谷は決して女のことなど考えたり、まして恋・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。「平田さんが今おいでなさッたか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・解決のない人間の間の利害や心理の矛盾、無目的な情熱の絡み合いの世界を、坂口安吾より太宰治より濃厚に戦慄的に描き出しているドストイェフスキーの文学は、目的のはっきりしない社会混乱のなかに生きているきょうの若い人の心をひきつける。その相剋の強烈・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・ かりに、自分が当夜の主人公であり、画業何十年かの果にこういう席のわり当ての還暦の祝を催されたとしたら、私は戦慄を禁じ得なかったろうと思う。 芸術家は孤独をおそれない勇気を常にもたなければならない。けれども、おそるべき性質の孤独があ・・・ 宮本百合子 「或る画家の祝宴」
・・・式破壊に心象の交互作用を端的に投擲することに於て、また如実派の或る一部、例えば犬養健氏の諸作に於けるがごとく、官能の快朗な音楽的トーンに現れた立体性に、中河与一氏の諸作に於けるが如く、繊細な神経作用の戦慄情緒の醗酵にわれわれは屡々複雑した感・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪は痒さに従って活動する。すると、ますます活動するのは田虫であった。ナポレオ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫