・・・ しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居たら押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……い・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだようになっていました。 ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 結局お前は手ぶらですごすご帰って行った。呼びかえして、「――あれはどうしてる?」 と、お千鶴のことを訊きたかったが、どうせ苦労しているにちがいないと思うと、聴けばかえって辛くなるだろうと、よした。お千鶴ももう年だ。なんとなく、・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ と、うっかりそう答えてしまい、これでは手ぶらで帰るより仕方がなかった。 しかし、聴けば、たった一軒、兵隊さんになら、どんなことでも喜んできくという「兵隊きちがい」の松尾という家があるという。 二人は早速いそいそと松尾家を訪問し・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 彼れらは、まったく手ぶらで、ただ、衣服を着けただけで上がってくる。たんなる労働者か、百姓のように見えた。ところが、上衣を引きはぐと、どこにどうしてかくしているのか、五十足の靴下が、ばらばらと足もとへ落ちてきた。一人の少年が三十七個の化・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・「俺ら、若しもの場合に、銃を持って行くから、お前、手ぶらで来て呉れんか。」と、浜田は、後藤に云った。「銃を持った日にや、薪は皆目かつがれやしねえからな。」「大丈夫かい。二人で?」大西は不安げな顔をした。「うむ、大丈夫さ」 だ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・このまま、手ぶらでも、けえられめえ。」私は、もはや、やけくそで、ことさらに下品な口調で言って、「あれも、一種の地獄だあね。どうだい、ちっとは、恥ずかしく思えよ。どだい女房に、まことしやかの嘘をつくのが、けちくさいじゃないか。そんなに女房の喜・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・旅行でも、出来れば手ぶらで汽車に乗れるように、実にさまざまに工夫するのである。旅行に限らず、人生すべて、たくさんの荷物をぶらさげて歩く事は、陰鬱の基のようにも思われる。荷物は、少いほどよい。生れて三十二年、そろそろ重い荷物ばかりを背負されて・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったままでゆられながら、しきりに大気の物理を論じ合っていた。 地理学教室ではペンクや助手のベーアマンが引率して近郊の地質地理見学に出掛けた。ペ・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
出典:青空文庫