・・・それで手許にはそれだけ鋏の入ったのが残っていた訳である。そうとも知らず次に乗車した時にうっかり切符を渡すとこれは鋏が入っていますよと注意されてはなはだきまりの悪い思いをしたそうである。その時の車掌は事柄を全くビジネスとして取扱ったからまだよ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・博士問題に関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音を破る価ありと信じて、とくに余のために認めてくれたものと見える。 下 手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、真率に余の学・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたく・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・たまたま他人の知らせによってその子の不身持などの様子を聞けば、これを手元に呼びて厳しく叱るの一法あるのみ。この趣を見れば、学校はあたかも不用の子供を投棄する場所の如し。あるいは口調をよくして「学校はいらぬ子供のすてどころ」といわばなお面白か・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許に置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、すでに学問の下地できれば学校に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立ること、父母の役目なり、天に対しての奉公なり。子の年齢二十・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・御意の通りでございます。手元の金子は、すべて、只今ご用立致しております」「いやいや、拙者が借りようと申すのではない。どうじゃ。金貸しは面白かろう」「へい、御冗談、へいへい。御意の通りで」「拙者に少しく不用の金子がある。それに遠国・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・――膝に開いた本をのせたまま手許に気をとられるので少し唇をあけ加減にとう見こう見刺繍など熱心にしている従妹の横顔を眺めていると、陽子はいろいろ感慨に耽る気持になることがった。夫の純夫の許から離れ、そうして表面自由に暮している陽子が、決して本・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 一太は長いこと長いこと母親の手許を眺めていてから、そっと、「キャラメル二銭買っとくれよ、おっかちゃん」とねだった。「…………」「ね! 一度っきり、ね?」「駄目だよ」「なぜさ――おととい玉子あんだけ売ったんじゃな・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。 十八人の侍が・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そこで女房は夫のもらう扶持米で暮らしを立ててゆこうとする善意はあるが、ゆたかな家にかわいがられて育った癖があるので、夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしてゆくことができない。ややもすれば月末になって勘定が足りなくなる。すると女房が内証で里・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫