・・・吉弥は僕の膝に来て、その上に手枕をして、「あたいの一番好きな人」と、僕の顔を仰向けに見あげた。 僕はきまりが悪い気がしたが、お袋にうぶな奴と見抜かれるのも不本意であったから、そ知らぬふりに見せかけ、「お父さんにもお目にかかっておきた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・私は、張合が抜けて父の室に行って見ると、新聞を読んでいた父もいつしか眼鏡をかけたまゝ、手枕をして眠っている。私は、父を揺り起そうとした。すると、『うるさい。少し眠かしてくれ。』といったぎり、また眠ってしまった。私は、全く、孤独であった。・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・頤で奥を指して手枕をするのは何のことか解らない。藁でたばねた髪の解れは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。 座敷へ上っても、誰も出てくるものがないから勢がない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行ってみる。麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・なら、わしも定めし島流し、硯の海の波風に、命の筆の水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢のあと、たづねて見やれ思ひ寝の、手枕寒し置炬燵。とやらかした。小走りの下駄の音。がらりと今度こそ格子が明いた。お妾は抜・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「強くさし閃いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手応えだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗かれた気楽さに立ち戻り、又ごろりと手枕のまま横になった。」これが、高邁というポーズ・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
・・・ どういう栖方の空想からか、突然、栖方は手枕をして梶の方を向き返って云った。「ふむ。」梶はまことに意外であった。「長篇なんですよ。数学の教授たちは面白い面白いと云ってくれましたが、僕はこれから、数学を小説のようにして書いてみたい・・・ 横光利一 「微笑」
・・・僕はその枕元にツクネンとあっけにとられて眺めていると、やがて恍惚とした眼を開てフト僕の方を御覧になって、初て気が着て嬉しいという風に、僕をソット引寄て、手枕をさせて横に寐かし、何かいおうとして言い兼るように、出そうと思う言葉は一々長い歎息に・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫