・・・しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底を探りて一束の草稿・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ 吉里は歎息しながら、袂から皺になッた手紙を出した。手紙とは言いながら五六行の走り書きで、末にかしくの止めも見えぬ。幾たびか読み返すうちに、眼が一杯の涙になッた。ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・在昔大名の奥に奉公する婦人などが、手紙も見事に書き弁舌も爽にして、然かも其起居挙動の野鄙ならざりしは人の知る所なり。参考の価ある可し。左れば今の女子を教うるに純然たる昔の御殿風を以てす可らざるは言うまでもなきことなれども、幼少の時より国字の・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒の上書を検査した。窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この手紙の一束を見てくれい。(忙がしげに抽斗を開け、一束の手紙を取り出恋の誓言、恋の悲歎、何もかもこの中に書いてはある。己が少しでもそれを心に感じたのだと思って貰うと大違いだ。(主人は手紙の束を死の足許これが己の恋の生涯だ。誠という物を嘲み・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しかし郵便を出してくれると聞いて、自分も起き直って、ようよう硯など取り出し、東京へやる電報を手紙の中へ封じてある人に頼んでやった。こういう際には電報をやるだけでもいくらかの心やりになるものだ。この夜また検疫官が来て、下痢症のものは悉く上陸さ・・・ 正岡子規 「病」
・・・五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話された。武田先生と菊池先生がついて行かれるのだそうだ。行く人が二十八人にならなければやめるそうだ。それは県の規則が全級の三分の一以上参加するようになってるからだそうだ。けれど・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 笑い話で、その時は帰ったが、陽子は思い切れず、到頭ふき子に手紙を出した。出入りの俥夫が知り合いで、その家を選定してくれたのであった。 陽子、弟の忠一、ふき子、三日ばかりして、どやどや下見に行った。大通りから一寸入った左側で、硝子が・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著いてからのも、総ての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度の港で魚のように波の底に潜って、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポル・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫