・・・しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手袋を一つ落していることを発見した。手袋は巻煙草に火をつける時、右の手ばかり脱いだのを持って歩いていたのだった。彼は後ろをふり返った。すると手袋はプラットフォオムの先に、手のひらを上に転がっていた。・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・将軍は太い軍刀のつかに、手袋の両手を重ねたまま、厳然と舞台を睨んで居た。 幕引きの少尉は命令通り、呆気にとられた役者たちの前へ、倉皇とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめきの声のほかは、ひっそりと静まり返ってしまった。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・保吉はいよいよ熱心に箸とか手袋とか太鼓の棒とか二つあるものを並べ出した。が、彼女はどの答にも容易に満足を表わさない。ただ妙に微笑したぎり、不相変「いいえ」を繰り返している。「よう、教えておくれよう。ようってば。つうや。莫迦つうやめ!」・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・「毛利先生が電車の吊皮につかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にしょうと苛っておるわ。野暮めがな。はて、見ていれば綺・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・しかもその雪なす指は、摩耶夫人が召す白い細い花の手袋のように、正に五弁で、それが九死一生だった私の額に密と乗り、軽く胸に掛ったのを、運命の星を算えるごとく熟と視たのでありますから。―― またその手で、硝子杯の白雪に、鶏卵の蛋黄を溶かした・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 茫然とした状して、運転手が、汚れた手袋の指の破れたのを凝と視ている。――掌に、銀貨が五六枚、キラキラと光ったのであった。「――お爺さん、何だろうね。」「…………」「私も、運転手も、現に見たんだが。」「さればなす……・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲の温室のような気のする、雨気と人の香の、むっと籠った待合の裡へ、コツコツと――やはり泥になった――・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「なんでも手足がなおれば、足袋なり手袋なりこしらえて上げるんだそうよ、ねい省さん」「さっきの爺さんはたいへん御利益があるっていったねい」 三人は罪のない話をしながらいつか蛇王権現の前へくる。それでも三人はすこぶる真面目に祈願をこ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・芸者上りの彼女は純白のドレスの胸にピンクの薔薇をつけて、頭には真紅のターバン、真黒のレースの手袋をはめている許りか、四角い玉の色眼鏡を掛けているではないか。私はどんな醜い女とでも喜んで歩くのだが、どんな美しい女でもその女が人眼に立つ奇抜な身・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫