・・・冬の手袋も買ってもらった。もっと恥ずかしい内輪のものをさえ買ってもらった。けれどもそれが一体どうしたというのだ。私は貧しい医学生だ。私の研究を助けてもらうために、ひとりのパトロンを見つけたというのは、これはどうしていけないことなのか。私には・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです。」「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」 僕は微笑んだ。曲った火箸の話を思い出したの・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・私は紺色の長いマントをひっかけ、純白の革手袋をはめていた。私はひとつカフェにつづけて二度は行かなかった。きまって五円紙幣を出すということに不審を持たれるのを怖れたのである。「ひまわり」への訪問は、私にとって二月ぶりであった。 そのころ私・・・ 太宰治 「逆行」
・・・しかし若い男や女が、二重廻やコートや手袋襟巻に身を粧うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時侯には馴れていて、手早く裾をまくり上げ足駄を片手に足袋はだしになった。傘は一本さすのも二本さす・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・その横から茶色のきたない皮の手袋が半分見える。箱の左側の下に靴が二足、赤と黒だ、並んでいる。毎日穿くのは戸の前に下女が磨いておいて行く。そのほかに礼服用の光る靴が戸棚にしまってある、靴ばかりは中々大臣だなと少々得意な感じがする。もしこの家を・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 靴にいっぱい雪をつけ、鼻のあたまを真赤にして手袋をぬぎながら車掌が入って来た。 ――フーッ! ――何か起ったの? ――むこうの軟床車の下で車軸が折れたんです。もうすこしでひっくりかえるところだった。 ブリッジへ出て両手・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・バイブルが「手袋なしには持てぬ」代物である通り、ブルジョア世界観によって偽善的に、甘ったるく装われ、その実は血を啜る残虐の行われている「子供の無邪気さ、純真さ」の観念に対してこそ、プロレタリアートは「知慧の始り」である憎悪をうちつけるのでは・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・ 父が、手袋のごみをはたきながら戻って来た。「どうも仕様がない。×へ電話かけさせよう」 ――母は黙っていた。父は、大半白い髭をいじりつつ、背をかがめ暖炉の火をかき立てた。 二月の海浜は、まして避寒地として有名でもない外海・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・健康で余り安逸を貪ったことの無い花子の、いささかの脂肪をも貯えていない、薄い皮膚の底に、適度の労働によって好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と腮の詰まった、短い顔、あらわに見えている頸、手袋をしない手と腕に躍動しているのが、ロダンには気に・・・ 森鴎外 「花子」
・・・ぞんざいなことばと不吊合いに、傘を左の手に持ちかえて、おうように手袋に包んだ右の手の指さきをさしのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指さきをつまんだ。そして給仕にこういった。「食事のいいときはそういってくれ・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫