・・・ そのうちに、階下の八角時計が九時を打った。それから三十分も経ったと思うころ、外から誰やら帰ってきた気勢で、「もう商売してきたの、今夜は早いじゃないか。」と上さんの声がする。 すると、何やらそれに答えながら、猿階子を元気よく上っ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 点点としているが、竹ごまのように、一たび糸を巻いて打っ放せば、ウアーンと唸り出すような力だ。 この力が千日前を、心斎橋を、道頓堀を、新世界を復興させたのだ。――と、しかし私はあわてているわけではない。なるほど、これらの盛り場は復興・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ 山本山と銘打った紅いレッテルの美わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈すら感じたのであった。 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ふと私は、一度脈をはかってやろうと思って病人の手を取ってみましたが、脈は何処に打って居るやら、遙か奥の方に打つか打たぬかと思う程で、手の指先一寸程はイヤに冷たく成って居ます。呼吸はと見ると三十位しか無い「はて、おかしいぞ」と思いましたが、瞳・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そしてその服地の匂いが私の寂寥を打ったとき、何事だろう、その威厳に充ちた姿はたちまち萎縮してあえなくその場に仆れてしまった。私は私の意志からでない同様の犯行を何人もの心に加えることに言いようもない憂鬱を感じながら、玄関に私を待っていた友達と・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・あらいやな髭なんぞを生やして、と言いかけしがその時そこへ来たる辰弥の、髯黒々としたるに心づきて振り返りさまに、あら御免なさいましよ、おほほほほ、と打って変りたる素振りなり。 これは私の親戚のもので、東条綱雄と申すものです。と善平に紹介さ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。 すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式に、数十万の日蓮の信徒たちが万燈をかかげ、太鼓を打って方々から集まってくるのである。 スピリットに憑かれたように、幾千の万燈は軒端を高々と大群衆に揺られて、後か・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 兵卒は、水を打ったようにシンとなって、老人の両側に立った。彼等の眼は悉く将校の軍刀の柄に向けられた。 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・五六日は身体が悪いって癇癪ばかり起してネ、おいらを打ったり擲いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済んだが、もう癒ったからまた今日っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣されて、そして気むずかし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫