・・・一歩々々臭気が甚しく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせい・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・日外、あの子がここで頭を打って血を出した事がある。まだ小さいのに気が荒かったゆえ、走り廻ってばかりいて、あれ危ないと思っても止める事が出来なんだ。ああ、この窓じゃ。あの子が夜遊に出て帰らぬ時は、わたしは何時もここに立って真黒な外を眺めて、も・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・それから山の脊に添うて曲りくねった路を歩むともなく歩でいると、遥の谷底に極平たい地面があって、其処に沢山点を打ったようなものが見える。何ともわからぬので不思議に堪えなかった。だんだん歩いている内に、路が下っていたと見え、曲り角に来た時にふと・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・それより少し田でも打って助けろ。」 虔十はきまり悪そうにもじもじして下を向いてしまいました。 すると虔十のお父さんが向うで汗を拭きながらからだを延ばして「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・傍から、忠一も顔を出し、暫くそれを見ていたと思うと、彼はいきなりくるりとでんぐり返りを打って、とろとろ、ころころ砂の斜面を転がり落ちた。「ウワーイ」 悌が手脚を一緒くたに振廻してそのあとを追っかけた。けろりとして戻って来ながら、・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 役所の令丁がその太鼓を打ってしまったと思うと、キョトキョト声で、のべつに読みあげた――『ゴーデルヴィルの住人、その他今日の市場に出たる皆の衆、どなたも承知あれ、今朝九時と十時の間にブーズヴィルの街道にて手帳を落とせし者あり、そのう・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・松野が背後から首を打った。 五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌の・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 今娘が戸の握りを握って、永遠に別れて帰ろうとするツァウォツキイの鼻のさきで、戸を締め切ろうとした瞬間に、ツァウォツキイは右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打った。 娘はツァウォツキイの顔をじっと見た。そして再び戸の握りを握っ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば、自分の富の権威を一倍敵に感ぜしめもし、彼の背徳を良心に責めしめもする良策になりはしないか、と考えついた時には、早や彼は家に帰って風呂の湯加減をみる為に、一寸手・・・ 横光利一 「南北」
・・・たっぷりある、半明色の髪に少し白髪が交って、波を打って、立派な額を囲んでいる。鼻は立派で、大きくて、しかも優しく、鼻梁が軽く鷲の嘴のように中隆に曲っている。髭は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしているが、それでも冷酷なようには見えない。歯は白・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫