・・・道太はいたるところで少年時代の自分の惨めくさい姿に打つかるような気がしたが、どこも昔ながらの静かさで、近代的産業がないだけに、発展しつつある都会のような混乱と悪趣味がなかった。帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・父は出入りの下役、淀井の老人を相手に奥の広間、引廻す六枚屏風の陰でパチリパチリ碁を打つ。折々は手を叩いて、銚子のつけようが悪いと怒鳴る。母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜を台所へと立って行かれる。自分は幼心に父の無情を憎く思った。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。「夜もだいぶ更けた」「ほととぎすも鳴かぬ」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・私は扉に打つかった。私はまた体を一つのハンマーの如くにして、隣房との境の板壁に打つかった。私は死にたくなかったのだ。死ぬのなら、重たい屋根に押しつぶされる前に、扉と討死しようと考えた。 私は怒号した。ハンマーの如く打つかった。両足を揃え・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・然るに今新に書を著わし、盗賊又は乱暴者あらば之を取押えたる上にて、打つなり斬るなり思う存分にして懲らしめよ。況んや親の敵は不倶戴天の讐なり。政府の手を煩わすに及ばず、孝子の義務として之を討取る可し。曾我の五郎十郎こそ千載の誉れ、末代の手本な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・秋田家いなごまろうるさく出てとぶ秋のひよりよろこび人豆を打つ酉(詠十二時夕貌の花しらじらと咲めぐる賤が伏屋に馬洗ひをり松戸にて口よりいづるままにふくろふの糊すりおけと呼ぶ声・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ たちまち杜はしずかになって、ただおびえて脚をふみはずした若い水兵が、びっくりして眼をさまして、があと一発、ねぼけ声の大砲を撃つだけでした。 ところが烏の大尉は、眼が冴えて眠れませんでした。「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音をさせながら歩いた。「ね、おっかちゃん、あんな家却って駄目なんだよ。女中の奴がね、いきなりいりませんて断っちまやがるよ」 一太が賢そうな声を潜めて母に教えた。そこでは、桜の葉が散っている門内・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 打つ真似をする。藍染の湯帷子の袖が翻る。「早く飲みましょう」「そうそう。飲みに来たのだったわ」「忘れていたの」「ええ」「まあ、いやだ」 手ん手に懐を捜って杯を取り出した。 青白い光が七本の手から流れる。・・・ 森鴎外 「杯」
・・・人を打つ。どうかすると小刀で衝く。窃盗をする。詐偽をする。強盗もする。そのくせなかなかよい奴であった。女房にはひどく可哀がられていた。女房はもとけちな女中奉公をしていたもので十七になるまでは貧乏な人達を主人にして勤めたのだ。 ある日曜日・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫