・・・急いで時計を見ると払暁の四時だった。「これじゃアとても競争が出来ない、」とその後私の許へ来て話した。 尤も二時三時まで話し込むお客が少くなかったのだから、書斎のアカリの消えるのが白々明けであるのは不思議でない。「人間は二時間寝れば沢山だ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・照しくるれど、同伴者も無くてただ一人、町にて買いたる餅を食いながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何せられて、辛くも払暁郡山に達しけるが、二本松郡山の間にて・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・最早紅くふくらんだ蕾を垂れていたが、払暁の温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿んで、派手な模様の長襦袢だけ出して、素足に庭下駄を穿きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映った庭土の上を歩・・・ 島崎藤村 「刺繍」
夏の夜の、払暁に間もない三時頃であった。星は空一杯で輝いていた。 寝苦しい、麹室のようなムンムンする、プロレタリアの群居街でも、すっかりシーンと眠っていた。 その時刻には、誰だって眠っていなければならない筈であった・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 鑑子さんの旦那さまは一昨二十日払暁没しました。足かけ三年の病臥の後です。二十日に重治さんから教えられて、咲枝、稲ちゃんと三人で出かけ夜十二時頃かえるつもりで行ったのですが、いかにもかえりかねてお通夜をしました。知義さん、須山さん[自注・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・一九一七年の十月二十五日払暁三時半にはこの河を巡洋艦「アウロラ」がさかのぼって来て、冬宮に砲口を向け碇泊した。それは輝かしい焔の記念だ。が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。 室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブル・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・十二月八日の払暁、戦争に対して反対の見解をもっていると思われていた千余名の人々が日本中で検挙された。私は十二月九日理由不明で駒込署に留められ、〔翌年〕三月検事拘留のまま巣鴨拘置所に送られた。六月下旬警視庁の調べがはじまった。何でもかでも共産・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・ 阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは払暁に表門の前に来た。夜通し鉦太鼓を鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして空家かと思われるほどである。門の扉は鎖してある。板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 二十七日、払暁荷車に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱に比ぶれば、はるかに勝れり。固より撥条なきことは同じけれど、壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵る。嶺の路ここかしこに壊れたるところ多かりし・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫